1.政権交代論

国の失政が隠蔽されるところだった薬害エイズ事件

薬害エイズ事件とは、血友病患者の治療に用いられた非加熱製剤について、エイズに感染する危険性があることを認識した後も、必要な措置をとらなかったという事件だ(こんな簡単な説明ですむような話ではないが)。1996年に厚生大臣となった菅直人が、厚生省に責任があることが分かる文書を出させることに成功、原告団に謝罪をすることで和解に至った。それでも当然、被害者やその家族の苦しみは消えないが、大きな成果であったことは間違いない。もし自民党の1党支配が続いていた場合、このような形にはならなかっただろう。

菅直人は本来、厚生大臣になどなれるはずがなかった。日本社会党を離党した江田三郎が結成した社会市民連合、その後継の社会民主連合の出身だからだ。自民党の長期単独政権の時代(ごく短期間のみ、自民党離党者による新自由クラブも与党であった)では、左派政党の所属議員が入閣などできるはずがない。この社民連は当時、衆議院4議席、参議院1議席であり、過去にもそれより議席が多かったことはない、小さな政党であった。

ところが自民党からの、新生党を結成する議員達(羽田・小沢派)、新党さきがけを結成する議員達の離党に起因する政権交代によって、1993年に社民連党は与党になった。代表の江田五月は科学技術庁長官となった。菅は、同党が解党すると、江田と共に日本新党に合流することはせずに、新党さきがけに加わった。さきがけも小さな政党ではあったが、これが非自民連立政権を離脱したものの(閣外協力に転じるとしたが事実上は離脱)、1994年に自社さ連立で与党となった。そしてこの自社さ連立下、菅直人は入閣を果たした(1996年成立の第1次橋本内閣)。

それだけではない。それまで、そして後の自民党を中心とする連立では、自民党の意向に反する決断をすることは、難しかったはずである。ところが当時の自民党は、社会党に付いて与党に復帰し、社会党から総理のポストを譲られたばかりであり、両院で過半数を割っていた。仲の良かった社会党とさきがけは、自民党を野党に戻して、すぐにでも新進党と連立政権を組むことが出来る(非自民連立を復活させられる)状態であったと言える(当時の状況は複雑であったが、キャスティングボートを握っていたことは間違いない)。自民党は謙虚さを支持回復の重要な手段としており、小党の大臣とはいえ、国民の喝さいを浴びるであろう、菅の動きに反発して、支持率を落とす余裕はなかったのである。

以上のことが重なって、つまり、1党優位の傾向が短期間弱くなったことで、薬害エイズ事件の、国の責任が認められた。これは、公文書の偽造が問題となっている今、心に留めておくべき出来事である。公文書が偽造されれば、権力の監視はより難しくなる(そのための文書の保存、情報公開がそもそも不十分である)。国民が泣き寝入りを強いられる、独裁国家になりかねない。