日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極(⑥⑦⑨)~膠着状態を打破する勢力~

第3極(⑥⑦⑨)~膠着状態を打破する勢力~

巴倶楽部と独立倶楽部は、第2回帝国議会で衆議院が解散された翌日の、民党懇親会に参加している(自由党『黨報』第6号32頁。1891年11月23日付の読売新聞には真中忠直-当選以来無所属-が「民党一方の旗頭」となって打って出ようと決心し、「協同倶楽部の落武者」を含めて議員を集めたことが記されている。独立倶楽部に一時的に見られた野党的な振舞いは、この真中の参加によるところが大きいのかも知れない。真中の衆議院議員選挙当選は第1回総選挙のみである。)。

しかし、独立倶楽部結成の主旨は、変化を見せた大成会の本来の立場を採ることにあった。同派には、大成会の運動に反対する意思はなく、意見によって各党と自由に連合するという姿勢を見せていた(1991年11月26日付東京朝日新聞)。この点は巴倶楽部と大きく異なるわけではなかったが、第2回総選挙後の再結成の動きを見ると、独立倶楽部が巴倶楽部に比して、中立的な面を強く残していたことが分かる。巴倶楽部に属した17名の中で、第2回総選挙に当選したのは7名であったが、そのうちの5名までもが民党側の同盟倶楽部に参加している。対する独立倶楽部は、所属した議員24名のうち、第2回総選挙に当選したのは9名であったが、同盟倶楽部に参加した者は2名に留まる。各会派の議員達がどれほど一致していたかは定かでないが、独立倶楽部の結成により、真の中立会派とでも呼び得るものが、初めて誕生したのである。薩長閥政府と民党、特に前者の多数派形成が、衆議院において政党の発達していなかった地帯に立場の明確化を促した、その結果だといえるだろう。

注目すべきは、第3極の一部の勢力が、薩長閥と民党の展望なき対立を打開するものとして現れたことである。貴族院では薩長閥政府を支持する議員達が多数派であり、衆議院では民党が多数派であった。そして貴族院と衆議院は、基本的には対等であった。つまり、薩長閥と民党の対立は、薩長閥支持派が衆議院で多数派にならない限り、展望のないものであった。そして、そのような変化は容易に起こるものではなかった。そのような状況下、民党の立憲自由党から、薩長閥政府に一定程度歩み寄ろうとする自由倶楽部が誕生したのである。

自由倶楽部は、その大部分が短期間で自由党に復帰したが、同倶楽部を指導した者達に、薩長閥と民党の展望なき対立を打開する資質がなかったはずはない。薩長閥寄りであった吏党の中から、その大義であった中立の維持を旨とする勢力として誕生した、独立倶楽部も同様である。実際に、自由党内の旧自由倶楽部系、第2回総選挙後に再び結成される独立倶楽部は、薩長閥と民党の陣営をまたぐ動きによって、事態を打開する、政界界縦断に関わる重要な役割を担うのである。

ここまでに登場した対立軸は、薩長閥政府と民党の権力争い、そして吏党系の立場や存在形態という、政策的背景の乏しいものである。

 

 

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