日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振(⑩)~伊藤の初の新党構想に対する反発~

(準)与党の不振(⑩)~伊藤の初の新党構想に対する反発~

伊藤博文は、政党(明確に政党組織であったのは民党のみであった)が多数派として力を持つ衆議院の現状を目の当たりにして、政府党の結成に舵を切ったといえる。しかし他の薩長閥政府有力者は、現実から目をそらすか、民党を抑えられる、または切り崩せると考えていた。自治党構想を断念した井上馨は、立憲改進党と組まなければ衆議院において多数派とはならず、同党は、もはや自由党と同じく当てにできないと考えていた。おそらく伊藤も、政府党に薩長閥政府寄りの無所属を合わせたとしても、過半数には届かないと考えていたであろう(総選挙によって状況が大きく変わるというものでもなかったということは、第2回総選挙の結果が示すことになる)。つまり伊藤の政府党構想は、いずれかの段階で、民党との合流か、少なくとも連携を迫られるものであった。政府側で、伊藤の政府党結成の構想に賛同した数少ない人物の一人であった陸奥宗光農商務大臣は、自治党構想にも関わっていた。彼は政府にありながら薩長閥の出身ではなく、自由党の土佐派や星と近いものの、民党ではないという特殊な立場にあり、土佐派の切り崩しに(一時的に)成功していた。後の陸奥の行動、立場を考えれば、陸奥にとって自由党系の切り崩しは、野党の力を弱めるためだけではなく、薩長閥政府の一部と野党の一部による、政界縦断的な新党を結成するためであったといえる。以上から、花開く段階にはなかったものの、薩長閥に政界縦断の芽が現れたのだといえる。なお、第1次松方内閣は、濃尾震災に対する救助費の支出に関して自由党に協力を求めて、内務省、吏党の反発を招いた。このことは、薩長閥全体(または薩摩摩、長州閥どちらかの全体)と民党全体(あるいは民党1党)が丸ごと連携することの難しさを示しているといえる。当時、薩長閥政府は状況を打開する必要に迫られていた。そうでなければ予算案、法案を提出する度に、その衆議院通過のための、実を結ぶかも分からない非常な労力を強いられる状況が続くからである。打開策は、伊藤にとっては政府党結成による多数派形成、他の多くの薩長閥要人にとっては、民党を弱らせることによる多数派形成であった。前者が新たな政権の枠組みの構築につながるものであったのに対し、後者は、より選挙結果に左右される手段であり、成功させるために強権的にならざるを得ず、野党のさらなる反発を招く危険があった。薩長閥における伊藤構想とその否定は、政府党の結成に失敗したというだけではなく、薩長閥が民党に対する有効な戦略を、一致して描くことにも失敗した、民党に対する弾圧を強めるしか道がなくなったことを意味した。

 

 

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