日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
帝政ドイツとの差異(⑩)~都市と地方、商と農~

帝政ドイツとの差異(⑩)~都市と地方、商と農~

憲法公布直後、金子堅太郎、伊藤巳代治、井上毅が伊藤に、政府党を結成して、対抗意識のある2大野党を引き離す(政府党が一方と組むということだと考えられる)という提案をした際、伊藤は、ビスマルクに倣って超然主義を採り、政党を操縦するという決意を示した。この際金子らは、ドイツでは小党が分立しているからそれが可能であるのだという見解を示したという(金子堅太郎『憲法制定と欧米人の評論』173~175頁)。ドイツ帝国内には、世俗対宗教、プロテスタント対カトリック、中央集権(プロイセン中心)対地方分権(カトリックの領邦等の独自性の尊重)、自由貿易(ドイツでは工業重視)対保護貿易(ドイツでは農業重視)、国家重視か自由重視かという対立軸があり、それによって多数の政党が分立していた。日本の明治期の2大民党には支持層の気質(知識の高さなどが影響している)、人的要素において分立しているという面が大きく、ドイツ帝国の政党間の差異のようなものは、なかったといえる。また自由党系と改進党系は、双方ともが自由主義政党として出発しており、当然ながらイギリスの保守党と自由党のような差異も持ち合わせてはおらず、地方型(自由党系)、都市型(改進党系)といっても、農業を地盤とせずにまともな数の議席を得ることはできず、都市部の利益、商工業の利益を代弁することを旨とする政党は、存在し難かった(大規模な商工業者は薩長閥政府から利益を得られることも多く、改進党系当初は東京で強かったものの、大阪など、他の大都市では吏党系が強かった)。業種ごとなどに貿易政策に関する志向の差異はあったものの、それは政党ごとの差異にはなり得なかった(ミニ政党なら話は別だが、そのようなものが誕生する下地にも乏しかったといえる)。ドイツ帝国の左右2つの自由主義勢力のように、支持基盤の商工業者に規模の差異があるというわけでもなかった。ビスマルクをはじめとするドイツ帝国の宰相達が、自らと政策的な差異が比較的大きな一部の政党に敵対的な姿勢を、その他に対しては、妥協的な姿勢を採ることによって、議会に政府の安定的な支持基盤を形成しようとした例は少なくない。特定の層の利益の実現という使命を背負ったドイツの諸政党は、政府の敵対者として議会で孤立し、政策実現の可能性が絶たれることを恐れたから(例えば社会民主党など、その時宰相に敵対視されることが当然であった政党は異なる)、宰相達は決定的な譲歩をすることなく、支持基盤を形成することができた(ただし失敗例も少なくはない)。しかし日本では、工業化が進んだ男子普通選挙制のドイツと違って、有権者層の多くが地主層であった。そのため、政党の数はドイツより少なく、それらは、利益団体に似たドイツ帝国の政党のように、政策の実現のために政府に寄るのではなく、政権を得るために、時に強硬な姿勢を採り、時に政府に接近したのであった。なお、1892年4月17日の東京朝日新聞の社説は、農党と商党、または地方党と都会党が分立しないよう、利害を調整するべきだとしているが。確かにこのような対立は国内を分断するリスクはあるが、有権者間の差異に投じて、政策が異なる政党が出現するのでなければ、違いの分からない政党が、ただ覇権を巡って争うだけだと言うことになる。国内の亀裂を深刻なものにしないような節度、配慮があれば、「農党」と「商党」「地方党」と「都会党」として、差異のある大政党が議論を戦わせることを始めるのも悪くはなかったと、考えられる。当時の日本がまだ薩長閥対政党と言う構図であったこと、商党、都会党というものでは大政党になり得なかったことこそ、問題であった。

 

 

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