2.キーワードで考える日本政党史

政界縦断・キャスティングボート・1党優位の傾向(⑥⑨)~縦断の停滞と土台形成~

第1回総選挙後の政界縦断の動きは、1991年度予算案が成立した後は停滞した。立憲自由党の離党者の多くが結成した自由倶楽部は、薩長閥政府支持派とはならず、自由党に改称した同党と接近し、そして合流した。民党は再び衆議院の過半数を上回り、状況は薩長閥と民党の展望なき対立へと、逆戻りをしたように見える。政界縦断の動きが停滞したのは、超然主義にこだわる薩長閥政府にも、そして民党、中立的な会派にも、それを本格的に進める意志がなかったからである。中立的な会派、つまり独立倶楽部の結成は、衆議院が解散される約1ヶ月前であったから、政界縦断を志向したとしても、時間が足りなかったであろう。どうであれ、独立倶楽部が当時、縦断を志向していたことを示す史料は見当たらない。しかし、時計の針は逆に回ったわけではなかった。自由党にも薩長閥政府にも、大きな変化があったのである。立憲自由党内では、陸奥を通じる長州閥との間のパイプがあり、彼らとの連携を排除しない星と土佐派の力が、土佐派の衆議院におけるキャスティングボートの事実上の掌握をてことした党改革の断行によって強まった。院外で力を持っていた大井憲太郎の影響力は弱まった。これは政界縦断の、民党側における土台が築かれたことを示している。星は大同団結運動の中心人物の1人であったが、保安条例により東京を追放され、出版条例違反で投獄されたため、自由党系と改進党系の連携に携わってこなかった。つまり、連携の中心人物にはなり得なかった。また星は、イギリス型の2大政党制を志向していたようだが、このことも、星が2大民党の連携に否定的であった要因だと考えられる。当時の日本の制度、状況下では、薩長閥との協力なしに政党が政権に参加することは難しく、1党だけでも薩長閥との接近に舵を切る必要があった。2党が同時に舵を切る場合、駆け引きは複雑となるから、政党の政権参加が遅れる可能性も、当然あったのである。1党優位性の実現(衆議院において自由党の優位性を高め、さらに院外への影響力を強め、薩長閥が政界の優位勢力である状況を改め、自由党が政界全体の優位勢力となること)が、2大政党制への有効なステップであったことは確かである。なお、大井系は対薩長閥政府強硬派であったが、星や土佐派に対抗するように、薩摩閥へ明確に接近していった。