2.キーワードで考える日本政党史

(準)与党の不振・政界縦断(①)~薩長閥内の民党対策の差異~

選挙干渉は、吏党系と違って一部の利益のため、党利党略で動く民党を抑えるという見方からすれば超然主義と矛盾しないが、一部の党派(吏党系)を有利に、他の党派(民党、新民党)を不利にするという見方をすれば、超然主義に反するものであった(とは言っても前者の場合でも、不偏不党とは言い難いからいささか苦しいが)。選挙干渉を行った品川らと、それに反発した陸奥らとの対立は、政党を抑えつけようとする立場と、民党とのパイプを用いて、その切り崩しを図る(あるいは民党との連携を図る)という、対政党方針の相違によるものであった。それはまた、後者が薩長閥出身ではなく、土佐派かそれと近いという、立場の相違と一体的なものでもあった。第1会派の地位まで得た中央交渉部は、結成時の大成会よりも薩長閥政府支持でまとまっていた。大成会との違いは、同派に参加していた福岡玄洋社に加え、同派には加われなかった熊本国権党の議員が参加していたことである。その熊本国権党の副総理であった佐々友房は、新党の結成に動いていた。同じ中央交渉部に属していた後藤系の井上角五郎も、以前から薩長閥政府支持派の団結強化のために動いていた。そして、やはり中央交渉部に属していた末松謙澄は、一度は政府党の結成を考えた伊藤博文の娘婿であり、伊藤の系列であった。背景の異なる彼らが、中央交渉部の発展のために協力することは容易なことではなかった。そもそも薩長閥政府には、自らの支持派、中立派をまとめることに、そう積極的ではなかった。国民自由党から、その結成直後に国権派が去り、同党が後藤系のみとなったこと、井上が自らの動きを松方総理に報告していたにもかかわらず、松方が別に、末松に議員の取りまとめを依頼していた(佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』239頁)ことが、それを示している。もちろん、目的はかけ離れていなかったのだから、互いの間にある溝を乗り越える努力が足りなかったということができる。

どうであれ、薩長閥とその支持派が一体でなかったのだから、やはり、薩長閥の一部と民党の一部をまたがる、政界縦断的再編は、国家としてのまとまりを維持するためには不可避であったのだと言える。そうでないと政治勢力の対立が、バラバラの権力者達と、バラバラの反抗者達の、単なる乱闘に終わる危険すらあったと考えられる(それに対し、例えば伊藤系が縦断に動いても、長州閥山県系が民党ほどに攻撃的になるとは考えにくかった―ただし第4次伊藤内閣期に裏切られる―)。なお、中央交渉部は、無所属議員や中立会派と連携することで、2大民党を切り崩さずとも、あるいはわずかに切り崩すだけで、衆議院の過半数を上回る勢力を形成し得た。選挙干渉の後では、それは確かに容易なことではなかったが、薩長閥政府が、準与党を積極的に助けることをしなかったこともまた、確かである。むしろ選挙干渉について賛否に割れ、それによって混乱を見せた。