日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振(④)~中央交渉部の分裂~

(準)与党の不振(④)~中央交渉部の分裂~

国民協会は、薩長閥政府支持派の色を、中央交渉部よりもさらに明確にしたものだといえる。その点で同派の結成は、政府支持会派の政党化への、大きな一歩であった。そうであればもちろん、国民協会の総選挙における獲得議席は、薩長閥政府の国民からの支持を測る指標とされる可能性があり、それは薩長閥が望むものではなかった。そもそも、民党と対決するのか、協力するのかということについて、薩長閥内が一致しておらず、前者を代弁するものとなった国民協会は、後者の長州閥伊藤系にとっては、邪魔にすらなり得た。このようなことなどから、薩長閥政府の公認ともならなかった国民協会の結成は、中央交渉部を、政党化に肯定的な勢力と否定的な勢力(伊藤系の末松謙澄や実業派の一部等)に分裂させるものとなったと、見ることができる(国民協会には政社化に消極的な議員もいたと考えられるが、政社に指定され、それを受け入れた再編成がなされても、分裂するには至っていない)。もちろん中央交渉部の分裂は、選挙干渉への評価、第1次松方内閣に対する立場に起因するものでもあるが、それらは全て一体的な事象であった。

ところが、過渡期ならではのややこしい点もある。「一体的な事象」というからには、政党を否定せず、激しい選挙干渉は行わず、自らも政党化へ進む勢力(第1次松方内閣に否定的)、政党を否定し、弾圧し、自ら政党を結成することはしない勢力(薩長閥政府である第1次松方内閣に肯定的)に分かれるということであれば分かりやすいのだが、そうではなかった。前者に、政党化に否定的な国民協会不参加者が、後者に、政党化に積極的な国民協会参加者があり、つまり入れ替わっているのだ。これはなぜか。

国民協会の結成は、中央交渉部の多く(約4分の3)を、明確な政府支持派として組織化することに成功したものであったと見ることもできる。この時は、吏党系の政党化は、政界縦断を志向したものでも、ましてや政党内閣を目指したものでもなく、時の非政党内閣を強化するためのものであった。つまり、民党と対決すべき存在であった。これに参加しない勢力も、政党内閣を志向しない点では同様であったが、政党内閣否定派にも、民党にも積極的に与しないこと、民党と対決することはあっても、そのために存在するわけではなかったことから、望むと望まないとに関わらず、政界縦断の進展に与し得る位置に、自らを置いたのである。このようなことから、逆転現象が起こったのだ。これがどうなったかについては、第5章の憲政党の結成、第6章の立憲政友会の結成で見る。

なお、薩長閥が第3回帝国議会の開会前、あるいは第2回総選挙の前から、政府党を結成しようと候補者、議員達をまとめていた場合、吏党系の会派に参加する者が減っていた可能性は高い。しかし、そのような悪影響を小さくするための方策も、もう少し、権力を握っていた薩長閥は採り得たのではないだろうか(そのためには民党に対する姿勢をもっと統一させることも必要ではあったのだが)。一方で、中央交渉部の比較的多くの参加を得た国民協会の結成については、吏党系が前進したという見方もできるわけだが、どうであれ、その結成後こそが問題であった。

 

 

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