日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振(④)~国民協会の結成~

(準)与党の不振(④)~国民協会の結成~

西郷と品川は、薩長閥政府に吏党の組織化を一任されたわけではなく、むしろ独自に動いたのであった。中央交渉部内の議員は、国民協会への参加者と不参加者に分かれた。国民協会は、衆議院では中央交渉部90名のうち59名を集め、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部において、結成時の中央交渉部の参加者には名が挙がっている無所属の3名、他の無所属5名を合わせた67名で結成された。中央交渉部の所属で国民協会の結成には参加しなかった議員は、31名であった。この不参加者のうち3名は、実業団体を結成した。結成時の実業団体は7議席であり、彼ら3名の他、3名が、結成時の中央交渉部の参加者に名が挙がっている議員である。また国民協会不参加者のうち別の5名は、井角組を結成した。当時、広島県内から選出された議員10名のうち、8名が中央交渉部に参加していたが、そのうちの5名が、井上角五郎を中心にまとまった。『議会制度七十年史』等によれば大阪府内選出の議員6名も、第4回帝国議会の会期中に大阪派を形成した(1893年11月28日付の読売新聞が、俣野景孝、外山脩造、橋本善右衛門、村山龍平、浮田桂造、兒山陶の6名を大阪派としている)。

国民協会は、中央交渉部の約4分の3の議員によって、政府を支持する団体として結成された。これは大成会の分裂と比べれば、多くを政府寄りとしてまとめたと捉えることもできる(大成会は一時85議席を誇ったが、協同倶楽部との両属問題と、それに起因する分裂騒動が幕を下ろした時、46議席、つまり以前の半分強となった)。しかしそうであったとしても、国民協会が薩長閥政府支持派として展望を見出せる状況とならなければ、意味はない。そして展望は見いだされていたとはいえないどころか、薩長閥内での内閣の交代により、むしろ不遇の身となったのである。

ところで国民協会については、伊藤博文の大成会を基盤とする政府党構想が、西郷らによって実現したものだという見方もできる。西郷従宏『元帥西郷従道伝〈新装版〉』238頁に、当時の伊藤博文について次のようにある。

湘南に下って政党組織準備に着手した。驚いたのは元老諸公で、陛下に奏請して留任するように優諚を賜ったが、伊藤は決心を翻さぬので、更に陛下から御親翰を賜るに至った。こんな時の留役に名優従道が乗り出して「政党組織はあなたがやらずとも、わしがやってもよいことじゃ」と諫めて伊藤の政党組織を断念させたのである。

村瀬信一氏の指摘の通り、一時期構想が存在していた可能性のある伊藤・西郷新党が、西郷・品川新党となった(村瀬信一『明治立憲制と内閣』117頁)という面もある。そのような見方をした場合、当初の構想に比べて、実際の国民協会は、影響力の小さなものとなったといえる。

中央交渉部から規模を小さくしても、なお全体の政社化に至らなかったことは、政府党結成の困難さを示している。『明治天皇紀』の1893年1月13日の記述に、次のようにある(『明治天皇紀』第八183頁)。

侍從長侯爵徳大寺實則聖旨を體し、内閣總理大臣伯爵伊藤博文に書を致して曰く、伯爵西郷從道昨年来國民協會を創設し、現政府を援助せんと努む、其の意不可ならずと雖も、若し久しきに亙らば、或は黨員に制せられて、遂に政府に抵抗するが如きに至るなきを保し難し、此の如くして終に維新の元勲をして、兄弟俱に罪に陷らしむるが如きことあらば、遺憾之れに過ぐるものなしと思召さる、卿等機を見て從道を説き、協會を脱會せしむること能はざるか、今の如くんば、直に彼を要路に登庸するも亦難からん、仍りて叡慮從道をして、機を見て歐洲に遊ばしめんと欲したまふ、

政党に否定的な薩長閥の姿勢を体現しているといえる。

その政府党の結成を志向していた伊藤系は、選挙干渉の恩恵を受けた議員等による国民協会という存在自体に、そもそも否定的であった。例えば1892年5月18日付の伊藤博文宛伊東巳代治書簡(『伊藤博文関係文書』二201~202頁)に次のようにある。

政府党之形勢は御明察之通り欠統一之一点刻下之情弊に有之、漫に飄々泛々たる烏合之衆に倚頼して将来の大計を過る如きは、此際最慎戒すへき事須臾も尊論忘却致間敷候。

同17日付の伊藤宛末松謙澄書簡(『伊藤博文関係文書』五410~411頁)には次のようにある。

扨又温和派中之一部は昨夜湖月に会し懇談会致し候由、其席にて政党組織之必用抔も談じ口気丈は大分慷慨憤発之様ありしも、迚もだめなりとて其事を来告すものも有之候。政党とすれは西郷をかつぎ出さんと内々たくみ居る輩も有之よしに候。

『原敬日記』にも、1892年6月25日の記述に、以下のようにある(『原敬日記』第2巻45頁)。原は官僚であったが、当時は陸奥と共に農商務省を去った後であった。

吏黨の内數人集合して國民協會なるものを起せり、西郷從道、品川彌二郎樞密顧問官の辞表未だ裁可なきに其會合に出席して演説したり、演説の趣旨不穏にて世間の物議を生ぜり。渡邊洪基國民協會の運動に加はり余に相談ありたるも余は之を斷り、且つ此くの如きものゝ遂に成功せざるものなることを説きたり。渡邊性質善良毫も悪意なく、屢々野心家の利用する所なるは惜むべし。

一部が政府党を結成しようとすれば他の一部が反対するという不統一、伊藤系を除けば基本的には政党そのものに否定的であったという足かせから、薩長閥が自らを解放する段階にはまだなかった。

 

 

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