2.キーワードで考える日本政党史

(準)与党の不振(④⑥⑨⑩)~難しい立場に揺れる国民協会~

第1次松方内閣が、大津事件や選挙干渉問題による閣僚交代等によって、長州閥の色を薄めると、長州閥と薩摩閥の議員が参加し、その融和を唱えていた国民協会は、難しい立場に立たされた。このことや、閣僚交代の際、自らに近い者として期待した人物の入閣が実現しなかったことで、国民協会は政府を積極的には支持しにくくなった(国民協会が、所属議員の政府のポストへの起用までは求めていなかったことも重要である)。薩長閥政府の不統一と超然主義、つまり自らの支持勢力の軽視が、吏党に影を落としていたということが、改めて分かる。

さらに、国民協会の品川副会頭が行った選挙干渉を批判した伊藤が総理大臣となり、同様であった陸奥を外務大臣に就け、また井上馨新内務大臣が、選挙干渉を主導した、国民協会と近い白根専一の一派を左遷させると、同派の立場はさらに悪化した。1892年10月(日付不明)の井上馨宛の国民協会所属粟屋品三書簡(井上馨関係文書)には、「第一議会ヨリ終始吏党タルコトヲ公言セリ 新内閣ノ議会ニ対スル方針ハ吏党ヲ如何ニ遇セントスルヤ」とあり、この当時の国民協会員の不安が現れている(粟屋は後に離党する―第3章参照―)。伊藤-陸奥は連携すべき最優先の対象を、選挙干渉の被害者側でもあった自由党とし、国民協会の後ろ盾であったといえる山県が、それに反発して閣外へ去ると、もはや同派の野党化は避けられなくなった。

伊藤が主導する内閣の下では、国民協会が準与党勢力の中心となって、民党(の一部)をその補完勢力となるような状況は、もはや起こり難いものとなったのである。そうであれば、民党は薩長閥政府と接近した場合、少なくとも衆議院において、政府側の中心的な勢力となりやすくなる。さらに薩長閥(第2次伊藤内閣)は1893年3月、同派の西郷会頭を海軍大臣として入閣させた。それは同派を政府側に引きつけておくというよりは、薩摩閥の要人たる西郷を、政府内に取り込む人事であったといえる。政党的なものの指導者となったことで、超然主義を採る薩長閥政府にポストを得られなくなった西郷に対する救済策でもあり、西郷は国民協会の会頭を辞した。国民協会は、条件をつけて西郷の引き抜きを認めるなどといった駆け引きを行うことができなかった。これは、協力を求められた際にポストや政策に関して要求を出した、自由党系、改進党系の姿勢と異なっている。板垣、大隈が入閣した時の自由党、進歩党よりも議席数が少なく、薩長閥政府が西郷を入閣させた意図が、国民協会の支持を得るためではなく、海軍改革の円滑な推進にあったという条件の違いはあるものの、薩長閥政府支持派として結成された国民協会が、その性質上、政府に対して強い姿勢を示さずに、引き抜きを甘受したことで、存在感をさらに減じたという面はあった。また西郷が離れたことで、国民協会内部の薩摩系と長州系のバランスが崩れた。そのような状況下、議席を減らし始めた吏党系に占める比重を増していった、佐々友房の熊本国権党など国権派の主張が浮上し、対外硬派として野党化したのである。

また、長州系の元田肇と大岡育造らは、国民協会にありながら与党となることを志向するようになった。西郷入閣によって、薩摩系が有利になることを警戒してのことかもしれない(だからこそ西郷の入閣には、西郷と近い薩摩系が肯定的であり、長州系が否定的であったのだろう)。こうして国民協会内部の亀裂は深まり、同派は姿勢を明確にできなくなっていった。

※西郷の入閣については、村瀬信一「明治二六年三月の西郷従道入閣問題」が詳しい。