2.キーワードで考える日本政党史

連結器・第3極(②③)~大憲政党の中の第3極~

憲政党の結成に、第3極から参加した議員達は、その内部の自由党系と進歩党系の対立を、和らげようと動いた。10月19日、同志倶楽部出身者、山下倶楽部出身者などが、憲政倶楽部を結成した。このことを報じた10月21日付の読売新聞に掲載された憲政倶楽部の趣意書には、失望したとまでは書かれていないが、次のようにある。

憲政党既に成るも舊黨派の感情の追日益々殷にして相傾奪するの弊を致し餘勢延て施政に及び計畫施設の際或ハ杆挌の患を免れず

記事は、憲政俱楽部の結成を決めた協議会の出席者を、次の通り挙げている。()内には出身政党、会派などを筆者が付した。ない場合には、「-」とした。平岡浩太郎(国民協会、議員倶楽部、山下倶楽部)、臼井哲夫(-)、降旗元太郎(山下倶楽部)、初見八郎(独立倶楽部―第3回総選挙後―)、河野広中(立憲自由党、自由党、東北同盟会、同志倶楽部)、小栗貞雄(-)、小山久之助(-)、山本貴三郎(-)、和泉邦彦(―)、鮫島相成(鹿児島政友会、同志倶楽部)、有馬要介(記事は「要助」。鹿児島政友会、同志倶楽部)、高梨哲四郎(-)、広瀬貞文(国民協会、国民倶楽部、公同会、同志倶楽部)、秋山元蔵(-)、大井憲太郎(旧大日本協会・政務調査所派。かつての立憲自由党関東派の要人)。地租増徴と鉄道国有化を党大会に提出しないことを主張していたことから分かるように、進歩党系に近い面があり(那須宏『帝国主義成立期の天皇制』224頁)、また議席数も少なかったから、自由党系と進歩党系の調停者とは、なり得なかった。

憲政党の分裂は、自由党系が憲政党を割って出て、独自に憲政党を再結成する形であったため、進歩党系に近かった議員達はもちろん、自由党系にも進歩党系にも偏っていなかった議員達も、無所属となるか、とりあえず憲政本党に参加した。同盟倶楽部、後の同志研究会もそうだが、連結に失敗した連結器は、その民党的な志向から、薩長閥に接近して連結をふいにしたのではない方、つまり改進党系に付くこととなる。これが、この時には進歩党系の議席数における自由党系に対する優位性を強くした面がある。同時に、その連結器(新民党)の改進党系との合流には、民党的な志向が強い議員が改進党系に入ることで、その野党的な性質を強めるという働きもあった。ただし、筆者が新民党に分類している同志倶楽部系の中でも、本来親薩摩閥である鹿児島県選出議員は、すぐに憲政本党を脱した。だから当時、真の新民党はわずかであったのだが、その中に、大物であった河野広中がいたことは重要である。