日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係(④⑦⑫⑬他)~自由党系に手を焼く薩長閥~

1列の関係(④⑦⑫⑬他)~自由党系に手を焼く薩長閥~

自由党系は、山県に利用されたと同時に、政界縦断的再編を完成させるまで、与党的な立場にいるために山県を利用したと言える。当時の権力をめぐる駆け引きの勝者はどの勢力であったのか、まずは各勢力(薩長閥の場合は要人)の志向を見ていく。

伊藤:超然主義→超然主義+吏党系による政府党結成→(陸奥、伊東の縦断志向の影響を受ける)→実業派等による政府党→縦断的新党

※ただし、理想は政党を含む各勢力を糾合する、伊藤系中心の挙国体制

山県:超然主義→超然主義+民党切り崩し→(いつ変化したかは定かでないが)超然主義+一党の過半数獲得の阻止・吏党系のキャスティングボート掌握→超然主義+第2党の一部となった国民協会の系譜に代わる、中立会派を山県系と近いものにした上での一党の過半数獲得の阻止・中立派のキャスティングボート掌握

松方:超然主義→改進党系との弱者連合+幅広い勢力を切り崩してつくる親薩摩閥政党

自由党系:消極財政=政権奪取 ⇒ 積極財政=薩長閥接近による政権獲得への漸進

改進党系:消極財政=政権奪取 ⇔(積極財政=薩長閥接近による政権獲得への漸進)

第2次山県内閣は、2大民党を分断し、その一方を、吏党系の国民協会→帝国党と共に、自らの内閣の準与党とすることに成功した。しかし山県がどれほど譲歩をしても、自由党系がいつまでも閣外にあることに我慢をしているはずはなかった。また、民党の一部と山県系を合わせただけでは衆議院の過半数を超えないという状況も、変わらなかった。中立勢力を吸収する吏党の拡大は、面倒な多数派工作、姿勢の曖昧な会派の不安定な支持を必要としなくなる体制を実現するために、必要であったといえる。国民協会の帝国党への改組では、それを全く達成することが出来なかったものの、後の大同倶楽部、中央倶楽部への発展は、それが形になったものである(それでも、第10、11章で見るような事情から、立憲政友会の優位性は弱まらなかった)。自由党系の政権参加、自由党系との、自由党系が多数派となる新党の結成を許した現実的な伊藤系は、吏党系も含め、1つの政党を基礎とするような政権を拒み、超然主義から本格的に踏み出すことがなかった山県系の、優位に立った。伊藤が立憲政友会を去る後のことであるが、寺内内閣期の山県の3党鼎立構想の失敗(第13章参照)の原因も、さかのぼればここにある。政界縦断の有効性が示されたことで、吏党の系譜は山県から自立した桂太郎による新たな縦断に参加し、改進党系とみなされる第2党の、一角となる。つまり山県の3党鼎立構想に、(第2党を強めたという点で貢献したと見ることはできないわけではないが)応じるものではなくなるのである。伊藤の政界縦断が、山県の3党鼎立構想よりも有効であったことは間違いない。その実現に向けて妥協した現実的な勢力、つまり薩長閥では長州閥伊藤系、民党では自由党系が、優位勢力を形成したのである。薩摩閥にも民党と協力しようとする姿勢が見られたが、進展が速すぎたことが失敗を招いたといえる。進展が速かった背景としては、当然ながら路線変更が遅かったこと、そして薩摩閥が長州閥に比して、改進党系が自由党系に比して不振であったことがある。

ここまで見ると、自らが内閣の中心となった場合の、衆議院における基盤の形成に成功し、実際に政権運営にも成功した伊藤系が、一時的には勝者であった。が、しかし内輪もめのために野党に転落した後は、伊藤自身、そして伊藤の後継者であった西園寺にも、党内の、生粋の自由党系などを抑えることはできなかった。伊藤系は結局、自由党系にのみ込まれたのだと言える。政界縦断の完成系であったかに見えた立憲政友会は、伊藤と事実上決裂したことで、再度キャスティングボートを利用して、薩長閥(この時には山県-桂系)に、対等に近い形で接近する(その担い手となったのは、自由党の出身ではない原敬であったが、星亨らの自由党の路線を継承しつつ、市部への浸透よりも郡部の基盤の安定化を比較的重視する、先祖返りとも呼び得る傾向も見せる)。一方で山県-桂系は、桂が政党(立憲同志会)を結成するところで死去したが、本体は枢密院、貴族院、武官、文官からなる官僚閥としては長く残った。政界は、山県系と自由党系の、2大勢力制へと移行していくのだ(≒桂園時代)。

 

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