2.キーワードで考える日本政党史

(準)与党の不振(⑩)~吏党系の模索~

帝国党の結成は、以前からあった吏党系の刷新を目指す動き、久しぶりに準与党となって、以前よりは順境にあった国民協会が、勢力を拡大するためでもあったが、国民協会の会頭(党首)であった品川弥二郎が、枢密院顧問官に就任したことを契機とした動きでもあった。品川の辞任は国民協会にとっては、西郷従道の引き抜き(第2章(準)与党の不振(④⑥⑨⑩)参照)と同様の事態であった。1899年7月27日付の読売新聞は、帝国党が第2次山県内閣に、40名の衆議院議員を得ることを約束していたと伝えている。期待する規模に全くならなかったわけであるが、吏党系が内閣(山県系といって良いだろう)に約束をする立場であった、つまり山県系に支援されるのでは全くなく、むしろ自らを売り込まなければならない立場であったことに注目させられる。吏党系が望んだ、吏党系と中立実業派との合流がほとんど失敗に終わったと言えることも、重要である。

帝国党の結成に大岡育造が参加しなかったこと、立憲政友会への参加のため、元田肇が離党したことから、吏党系は超然主義的な山県寄り(帝国党)と、準与党の立場に満足せずに与党を目指す、伊藤寄り(大岡、元田ら)に分裂したのだと言える。山県は当時総理大臣であったが、伊藤が自由党を基盤に新党を結成すれば、薩長閥の要人としての権威と、衆議院における基盤の双方を手にする伊藤が、山県の優位に立つ可能性があった。立憲政友会において、伊藤と同郷の大岡育造らは中心部にある程度食い込み(総務委員等の総裁に次ぐポスト―ただし複数が就く―を大岡か元田が得ることが少なくなかった)、国民協会残留派中心の帝国党は、20議席に届かない小勢力として進むこととなった。さらに立憲政友会が与党に、帝国党が野党になり、後者の道のりは険しいものとなるように見えた。展望があるとすれば、憲政本党が山県に寄り、帝国党と憲政本党の連携が実現する場合であった。対外強硬姿勢(特に対露強硬姿勢)が、その共通項となり得た。

帝国党の政治綱領は次の通りであり、第六に社会政策の拡充を掲げた(1899年7月6日付読売新聞。宣言にも「内ハ國民の福祉を増進し外ハ國家の光榮を宣揚し」と、謳われている。宣言には、「内を顧れバ黨派の弊已に長じ政權を以て紛争の具と爲し」という、吏党系らしい主張も見られる)。

第一、我黨ハ欽定憲法の趣旨を恪守し萬世一系の國體を擁護し以て祖宗建國の鴻謨を賛袤せんことを期す

第二、我黨ハ軍備の完實を謀り以て帝國の宇内に於ける位置を維持し世界の平和を擔保せんことを期す

第三、我黨ハ開國進取の國是を恢暢し以て東亞の文明を扶植し帝國の權利利益を伸張せんことを期す

第四、我黨ハ國家経濟の基礎を鞏固にし財政を整理し實業を振作し以て國力を充實せんことを期す

第五、我黨ハ教育勅語を遵奉し國民道德の精神を發揚し以て國教を扶持し文明を增進せんことを期す

第六、我黨ハ國家社會政策を擴充し救貧備荒の實を擧げ勞働者を保護し以て社會の秩序を整齊せんことを期す

第七、我黨ハ隣佑團結の實を擧げ地方自治の完備を謀り以て國民自營の道を全ふせんことを期す

第八、我黨ハ交通機關を完整し運輸通商の道を恢擴し以て國家事業の發達を期す

同党結成の約半年後の1900年1月2日の読売新聞も、社会問題の調査が脱稿に至ったことを報じている。無産勢力を含めた再編を策す、後の右翼的勢力(吏党系出身の安達謙蔵を中心とした、立憲民政党離党者が結成した国民同盟)の原型のようにも見える(ただし国民同盟は、2大政党以外の大結集が難しかったことから、社会大衆党、東方会―国民同盟の離党者が結成―との合流を結局は拒んだ)。この国家社会主義的志向は、第3極としての存在意義を示し得るものではあった。しかしその後、吏党系が社会政策の実現を策して積極的に動いたということを確認することはできない。

なお、帝国党の結成に参加した議員達の経歴については、特別な傾向はない。