日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・1党優位の傾向(⑱)~憲政本党と三四倶楽部~

第3極・1党優位の傾向(⑱)~憲政本党と三四倶楽部~

1901年3月7日付の東京朝日新聞によれば、三四倶楽部は高野事件を上奏案として提出しようとし、憲政本党に賛成を求めた。また同派の加藤六蔵氏らが、議員涜瀆職法案を提出しようとしており、引き続きあらゆる問題を捉えて内閣を弾劾しようとしていた。同派の工藤行幹らは、可決されなかったが、陸海軍両省の軍事費、司法省の裁判所費を、流用を防ぐために細別する建議案を提出している。高野事件とは、第2次松方内閣期、高野孟矩が、台湾の高等法院長を免官となったものの、裁判官の身分は憲法で保障されているとする高野が、政府に俸給の支払いを求める訴訟を起こすなどしていたことを指す。その後、高野の処分が取り消されることはなかったが、政府が台湾の司法官に憲法上の保障があることを認めるに至った。涜職法案とは、議員等が職務に関し賄賂を収受、要求した場合の罰則を定めるものであり、前の第14回帝国議会では否決されたものでもあった。第15回帝国議会では成立した。3月16日付の東京朝日新聞によれば、結局憲政本党が、高野事件について司法部会において質問書を提出することとし、立憲政友会、三四倶楽部も同意した。いずれについても、三四倶楽部が主導権を発揮するには至らなかったが、同派の姿勢は明確であった。6月13日付の東京朝日新聞によれば、第1次桂内閣の成立に関して三四倶楽部は、政党を基礎としない内閣には根本の主義において反対だとしつつ、立憲政友会の不始末の後、憲政本党が政権を託すに足りないことから、一時的の変例としてやむを得ないとし、賛否を保留した。また同派は、帝国党が新内閣の宣言を見ないで賛成を決議し、憲政本党が好意的中立の聲言をしたことを、党略として必要であったとしつつ、自らは、両党と異なり是々非々の立場で、憲政本党からいかなる交渉があっても、政府と提携しない姿勢であった。具体的には、曽祢蔵相が同派の経済的消極主義とやや反することに注目し、内閣と一致の行動を採ることはできないとする議員が多かったという。憲政本党への復党については、そのような形ではなく、同党解党の上、新たに政党を結成するべきだと考えていた(1901年6月13日付東京朝日新聞)。

これらのことからも、三四倶楽部が、当時の衆議院において、かなり左であったことが分かる。一方で同派には、立憲政友会に寄ろうとする傾向も、多少あったようだ。11月21日付の東京朝日新聞は、新税を以て基金填補を行うこと、租税を以て公債支弁の事業費に流用しないことについては、立憲政友会と三四倶楽部の方針が同じであるとし、立憲政友会が、北清事変の賠償金の公債支弁事業への流用を許す点については、東洋における権利、貿易の拡張に支出するとする三四倶楽部と異なるものの、三四倶楽部の中村弥六が、楠本、工藤、大東、鈴木を説き、立憲政友会の尾崎を介して、互いが譲歩をし、提携に至るはずだとしている(楠本、工藤、大東は三四俱楽部、楠本は男爵となり、衆議院議員ではなくなっていた)。しかし、母体が政友会内閣の法案に賛成したことに、反発して結成されたのが三四倶楽部であり、立憲政友会との歩み寄りが可能であったのなら、そもそも憲政本党は分裂する必要がなかったとも言える。政友会内閣の政策への賛否以前に、党内の感情的な対立のために分裂したに過ぎないという面が、浮かび上がることにもなる。基本的には積極財政志向であった立憲政友会が、三四倶楽部に譲歩することでまとまれたのだとすれば、それは共に野党となったからに過ぎない。本来の姿勢、姿勢に隔たりのある双方の連携が現実的であったとは、言い難い。しかも立憲政友会では、井上角五郎、石田貫之助ら多くの衆議院議員が、公債支弁事業費を普通歳入に移すことに賛成であったという報道がある(1901年12月13日付東京朝日新聞。井上らが第1次桂内閣に切り崩されていたことを考えれば当然のことではあるが)。11月22日付の東京朝日新聞によれば、工藤行幹は、前議会の新税で基金補填を行うこと、租税を公債支弁事業に流用することを許さないこと、北信事変の賠償金を特別会計として、東洋に於ける権利、貿易拡張費に支出することを同派の委員が決めたことは事実だが、まだ総会の議に附したものではないとした。また財政問題における、つまり上に見た立憲政友会との提携について、「無根の甚だしきもの」とし、意見が一致すれば、行動を共にするということは辞さないものの、他の党派の力を借りて目的を果たすことを図ることはないとした。いささか分かりにくいが、三四倶楽部がまとまりを欠いていたことは確かだろう。26日付の同紙には、それまでの経緯から基金補てんを必要とする立憲政友会とは異なり、財政困難が甚だしい中、その必要を認めないという、財政方針反対派の1人だとする人物の意見を掲載している。それは工藤の方針と異なるだけでなく、正式に決定されていない方針を工藤の私見だとし、基金補てんを唱えることが「本党に対する面当てならバよい加減にして置くがよいのだ」とまでしている。三四倶楽部の不統一は、同派の東北地方選出の議員達が、自らを吸収しようした憲政本党と合同で、「東北同志大會」を開いたことからも窺うことができる。ちなみに大会では、強硬な外交方針を執ること、行財政整理、地租復旧などを決議している。このことについて報じた11月25日付東京朝日新聞の記事は、復旧の相談が成らなかったものの、財政以外の問題では、憲政本党と三四倶楽部が同一歩調をとるまでになると捉えている。27日付の同紙は、三四倶楽部の復党の内議が熟した上での会合ではなく、主導者の憲政本党が焦って開いたものだし、三四倶楽部側の出席者が東北地方選出の衆議院議員6名のうち、工藤と秋保だけであったと報じている。大会の開催はやはり、憲政本党による三四倶楽部切り崩しの動きとし得るものであったと言える。双方の間には、財政計画が互いに異なるものの、それ以外については、出来る限り提携して反対派にあたることが合意されたのだという。その後、29日付の同紙によれば、三四倶楽部は、同派の財政調査特別委員の工藤、金岡、石原、佐藤、竹内の協議によって、在京の同派議員の財政意見を全て破棄し、再調査を決めた。そして結局、所属代議士が集まって次のことを決議した(1901年12月4日付東京朝日新聞)。

新増税の収入を以て基金填補を行ふ事を爲さず歳入餘剰を生じたる時ハ總て公債償却に充てしむる事

租税を以て公債支辨の事業費に流用するを許さざる事

北信事件の賠償金ハ特別會計と爲し、之を清韓兩國に於ける權利及び貿易擴張費に充てしめ内國の事業に費消する事を許さゞる事

昨年日本帝國が露清密約に抗議したる精神ハ飽く迄徹底せしむる事 協定税率廢止の建議案を帝國議會に提出する事

12月4日付の東京朝日新聞によれば、三四倶楽部において、復党に最も積極的であったのは、萩野左門(第5、7回総選挙には当選しているが、第6回では当選していない)であり、復党に最も否定的であったのは石原であった。萩野については、憲政本党の交渉の中心が、同じ対外強硬派の神鞭知常であったことが、関係しているのかも知れない。しかし萩野は、後(新潟進歩党時代)には、坂口仁一郎のように復党に積極的であったということはなく、坂口と違って事実上復党しなかった(「事実上」ということについては第8章⑤参照)。憲政本党と三四倶楽部の勢力維持のためには、再統一が有効だと見られていた。しかし少なくとも結果的には、それよりも政策が重視されたということになる。ただし憲政本党については、第1次桂内閣(薩長閥)に接近するために、政策について譲れなかったという面があった。12月17日付の東京朝日新聞によれば、三四倶楽部の新潟派は、同派に、次の条件での憲政本党との合流を提案した。

一 既往五ヶ年間の歳出平均額を以て程度とし來年度の豫算を削減する事

二 進歩黨と三四倶樂部とを合同するの目的を以て二者互に解散する事

記事は1つ目の条件について、削減幅が大きなものになることから、三四倶楽部であっても、そこまで削減するものを見つけられないとし、また憲政本党が、当時内閣の予算案に大方同意していたことから、双方の同意が困難であるとしている。2つ目の条件については、三四倶楽部が志向していた、双方以外の議員も参加する新政党の結成が難しいことから、同派にも格別意義がないとしている。さらに記事は、交渉がまとまらない時には、新潟派が三四倶楽部を脱して新潟進歩党を組織して、独立の態度に出て、県下の和合を保つはずだとしている。これはほぼ、その通りになった。17日の東京朝日新聞には、立憲政友会と三四倶楽部の交渉についても記されている。それによれば立憲政友会は、特別会計とする清からの賠償金を、三四倶楽部が東洋経済の費用に限定する点以外については、同派と一致していることから、この点についての同派の譲歩の上での、議会における提携を求めた。これに対して三四俱楽部は、自らの議決をひるがえすわけにはいかず、案件が実際に議場に上ってから、互いに交渉し、妥協すればよいという回答をして、積極的な姿勢を見せなかった。以上から、三四倶楽部内に、憲政本党に復党しようとする議員達と、立憲政友会と連携しようとする議員達がいたことが分かる。しかし双方とも、少数が積極的であったに過ぎない。結局同派は、憲政本党に対しても、立憲政友会に対しても、明確に歩み寄る姿勢を見せずに孤立し、第7章で見る通り憲政本党に切り崩され、総選挙でも議席数を減らしながら、大幅に縮小していくこととなる。このようになった背景には、本来右から、第1次桂内閣-立憲政友会-憲政本党-三四倶楽部と並んでいるべきところ、当時例外的に、憲政本党が第1次桂内閣に寄る傾向を見せており、次に立憲政友会と憲政本党の野党共闘が実現したため、右のブロック(第1次桂内閣と、これに接近する立憲政友会)と左のブロック(憲政本党と三四倶楽部)という、対立関係が生じなかったことがあると、考えられる。三四倶楽部が2大政党(2大民党)の連結器になれれば、この状況は同派にとってチャンスであった。しかし、三四倶楽部には、憲政本党に復党しようとする動きと、立憲政友会と連携しようとする動きが別々にあり、しかも双方とも、少数が積極的であったに過ぎなかった。つまり連結器とはなり得なかった。

 

 

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