2.キーワードで考える日本政党史

優位政党の分裂(④、補足)~政友会の革新運動と総裁専制の動揺~

本章第3極実業派の動き(②)~壬寅会の挫折と中立派の右傾化~で触れた大阪一揆とは、総裁専制に反発する、立憲政友会員達が集まったものである。神戸での観艦式、大阪勧業博覧会があったために衆議院議員も多くいた、大阪で動きが起こったのであった。その中心は、江湖倶楽部に属する勢力、信州組と呼ばれていた勢力であった。いずれも、立憲政友会の結成に参加したものの、第4次伊藤内閣崩壊のきっかけをつくり、政界で孤立していた渡辺国武に通じる対外強硬派で、小川平吉が関係していた(1903年4月15日付読売新聞)。関東派でも、彼らに呼応する動きが見られた。伊藤に不満を持つ土佐派、北信八州会の党員は、自由党再興を目指していたが、資金等の問題があり、あまり進んでいなかった。土佐派の中心人物であったが、政界からは引退していた板垣も、渡辺と近くなっていた。自由党系の指導者の地位を、立憲政友会の結成当時にすでに失っていたに近かったとはいえ(註1)、伊藤に取って代わられてしまった板垣、そして、政友会内閣で四面楚歌となって自らの地位を失ったと言える渡辺、当時の自由党系(立憲政友会)に、その出身であったからこそ不満を持っていたであろうこの2人が、新党を結成することも視野に入れ、手を組もうとしていたのである。

立憲政友会の離党者を見ると、まず、最左派が離党したということは言える。総裁専制に対する反発には、民主化を求める動きという面が、当然あるからだ。対外硬派が離党したという面もあり、これには最右派の離党という性格がないわけではない。しかし、政党中心の内閣の成立→定着(→議院内閣制への移行)という道を歩んでいたこの時代(すでに県政党内閣、完全な政党内閣とは言い難い立憲政友会内閣を経験していた)、「右」とはやはり、(薩長閥中心の)非政党内閣の維持であったと見るのが自然だ。対外強硬姿勢には、反薩長閥内閣のポピュリズムという面もあった。そして、「最左派」の離党者と対外強硬派の離党者は重なっていた。これに自由党以来の、そして何より伊藤独裁となってからの立憲政友会の権力闘争が加わっていた。この権力闘争の結果、対立していた伊藤と土佐派の双方が去ったわけである(もちろん動揺したことに見切りをつけて離党した議員もおり、彼らは、-伊藤か、自ら野党色を強めた旧自由党のどちらかで言えば-伊藤に近かったと考えられる)。以上から、離党者には様々な志向の者があり(志向になった者があり)、まとまることができなかった。かなりの規模の分裂であったのに、そこから新党は結局誕生しなかった(新たな自由党も、政党よりも会派に近いものであったし、分裂し、消滅した)。この、立憲政友会の分裂は、桂・伊藤合意が大きなきっかけであったことからもわかるように、それまでの自由党系の内部対立という面を含んではいても、性質やそれまでの歩みが異なる、自由党系と伊藤系が合流したひずみが、現れたものだと言える。そう考えると、その双方に再び分裂するという、憲政党(旧)の分裂のようにならず(註2)、あいまいな分裂であったことで、立憲政友会は、自由党への先祖返りの傾向と共に、政界縦断政党の性格を失わずにすんだ。だから生き延びて、優位政党の地位を取り戻す(長期的に見れば守る)ことができたのだと言える。

註1:その経緯は中元崇智「板垣退助の政界引退と『自由党史』」に詳しい。簡潔に述べれば次の通りである(前提として、第3次伊藤内閣との提携が失敗に終わって以来、自由党系の土佐派はそもそも不調であり、そのことに不満を抱いていた)。1899年、彼らは板垣を、不在となっていた自由党の総理に就けることを目的に、党則改正を行おうとして、失敗していた。同年6月には、東京市の市街鉄道敷設権を傘下の出願者に獲得させようとするものであった、星の私営鉄道論に反対し、市営鉄道論を唱えた。星は地租増徴反対派を切り崩すため、実業家の小山田信蔵に、横浜の海の埋め立て許可を見返りに、反対派議員を買収させた。星の支持を得た小山田組と、土佐派が支援していた横浜組、立憲政友会の信州組(龍野周一郎ら)は、埋め立て許可を巡って競合関係にあり、土佐派や信州組に星排斥の運動が広がった。土佐派の星に対する2つの挑戦は、どちらも星の力を前に失敗に終わり、板垣は政界を引退した。中元氏は、府県会議員選挙後に引退することが初志であったとした板垣が、党則改正に関与しているとの誤解を避けるために辞任したと弁明していることから、党則改正問題が板垣の政界引退の一因となったとしている。

註2:憲政党の旧自由党系と旧進歩党系への分裂は、自由党系に限ってみれば、政界全体におけるキャスティングボートを行使したに過ぎない。