2.キーワードで考える日本政党史

1列の関係・2大民党制:(④~⑦):~古い対立軸の向こうの改進党系~

山県-桂系が、憲政本党内も含めた対外強硬派、可能な限りの立憲政友会離党者を糾合して民党連合に対抗していたならば、政界は拡大吏党とも、かつての吏党系とも呼べるもの(第9、10章参照)と、民党(2大政党残留派と新民党)に2分される可能性があった。そうなれば、帝国議会開設当初のような、分かりやすいとも言える、対立構図になっていた。自由党系と改進党系の間に生じた差異もあったから、積極財政志向対消極財政志向、対外硬派対体外軟派というような、単純なものにはなりにくかったが、それが変形したものも含めて、議院内閣制の是非以外に加え、新たな対立軸が浮上する可能性はあった。これを阻んだのは、2大政党の合流による憲政党結成の再現を望まず、山県-桂系と立憲政友会との「2大勢力制」≒衆議院における1党優位性の維持を望んだ、立憲政友会(自由党系)であったといえる(第9章参照)。そもそも自由党系は、政党内閣の定着よりも、自らが権力を握ることを重視していた。これは、当時の状況、制度の下では、仕方がない面もあるが、2大政党の一体化を難しくしていた。それだけではない。山県-桂系は、2大民党の合流を阻止しようとしていた(1903年11月16日付萬朝報が報じているが、当然のことである)。強敵の出現を阻もうとするのは当たり前のことである。山県-桂系が、自ら対立軸を明確にすることもなかった。外交姿勢については利用するだけで、その際に、自らを傷つける危険を避けるのはもちろん、他の勢力と対立を深めることもしなかった(そのような対立は国益を損なうものであった)。この点で、対外硬派新党の結成は、少なくとも薩長閥政府寄りのものとしては、難しかった。だから山県-桂系は、切り崩せるものは切り崩し、仲間にできる勢力は仲間にする、というだけであったのだが、それは現実的である一方で、ビジョンを欠いた動きでもあった。当時の衆議院の状況は複雑で、多数派形成は難しかった。だがそうなった要因は、薩長閥にも大いにあり、また複雑でなければ、自由党系と伊藤系が合流したあとでは、その立憲政友会に譲歩をして組む以外に、道はなかったであろう。複雑な状況だからこそ、衆議院のどの勢力を土台に、どの勢力を加えるのか、明確に作戦を立てるべきであったし、そうすること、その成功に期待することができたと、筆者には思える。

当時は、山県-桂系が優位勢力であり続けようとして、立憲政友会(自由党系)が衆議院の優位政党であろうとし、山県-桂系と渡り合える勢力になろうとしていた。それぞれ、理想、政策を実現させるために権力を握っていなければならなかったということもあるが、自由党系にとっては、まずは、政党中心の内閣を大いにあり得るものとしなければならなかった。そのためには2大政党の合流は有効であるようで、そうではなかった。2大政党が合流すれば、かつての憲政党がそうであったように、衆議院をほとんど独占的に代表する政党として、薩長閥と渡り合えるとは言っても、総理大臣を選ぶ権限を事実上有していた薩長閥から、警戒されるというものであった。そもそも2大政党が合流して、一体的に薩長閥に寄るということはあり得なかった(それがあり得るということは、そもそも、ほとんどすべての勢力が一体となり得るということだ)。以上から当時は、対立軸を示すことよりも、かすませる力が働いていた。時に対立軸が強調されることはあっても、限定的な動きにならざるを得なかった(第9章参照)。本来存在していた対立軸を見て、そちらに銃を構えていたのは、薩長閥政府よりも、自由党系よりも、弱かった、改進党と新民党であった。