2.キーワードで考える日本政党史

第3極・野党に対する懐柔(⑥)~対外硬派の2分化~

当時、帝国党が対外硬派に名を連ねて立憲政友会に対抗するという状況があった。具体的には1900年9月24日結成、1902年4月27日解散の国民同盟会への参加、1903年7月27日結成の対外硬同志会への参加である。これは自由党系と伊藤寄りの勢力以外が結集するという点では、最初の対外硬派と同様であった。しかし第1次桂内閣成立後は、対外強硬派の中心的な人物であった近衛篤麿、そして憲政本党主流派の思惑とは別に、内閣を支持する勢力という面が加わった。確かに内閣が代わり、その中心は、伊藤系から山県-桂系に代わった。だが対外強硬派とは本来、政府の外交姿勢を軟弱だと批判するものであった。それが、山県-桂系の政権奪還によって、吏党系の帝国党が政府支持派となり、第1次桂内閣に寄ろうとする時期があった憲政本党も、立憲政友会よりも第1次桂内閣(山県-桂系)の方がロシアに対して強硬的であったことなどから、内閣に好意的なメンバーをかなり含む状態になった。その影響は大きかった。立憲改進党と対外強硬派が合流したという面を持つ進歩党の後継であった憲政本党は、2大政党の連携へと舵を切った執行部を支持する勢力と、それについて行けず、吏党系を含む山県-桂系と親和性の高くなった、対外強硬派の立場を維持しようとする勢力に、内部で裂かれる傾向を見せ始めたのである。経緯が異なるとはいえ、対外硬派が野党であった時には、起こらなかったことである。