1.政権交代論

野党に対する懐柔、切崩し・連結器(⑧)民党からの入閣

大隈と後藤の入閣は、民党を分断して弱めるためならば、つまり政府の戦略上有効であれば、民党系の要人の入閣が可能であることを示した(もちろん政党等からではなく、個人としての入閣という形であり、また、かつて明治政府の要人であったからこそ入閣が可能であった)。積極財政志向を持ちながら消極財政を受け入れる姿勢も見せた大隈は、明治政府において、井上馨ら消極財政派と、黒田ら消極財政派の中位に位置していたことから、第1次伊藤内閣期に、その双方から入閣を期待された。また井上馨の自治党構想では、立憲改進党が吸収すべき対象となり、後藤主導の大同団結運動は、改進党系の一部からも参加を得ていた。以上から、大隈、その影響下にあった立憲改進党は、薩摩閥と長州閥、または薩長閥と民党を結ぶ可能性があった(大隈は立憲改進党を離党したことで、薩長閥と改進党系を結ぶ、連結器の中の連結器となり得た)。しかし改進党系を連結器とした縦断は、立憲改進党にその役割を果たす意思がなかったこと、大同団結運動を含めて自由党系には、薩長閥政府に対する強硬派が多かったことから実現しなかった。薩長閥政府も縦断までは明確には視野に入れないまま、民党の分断を策していた(野党的勢力を分断するという狙いよりも小規模であったが、後藤の足元の大同倶楽部は、立憲自由党参加者-残留者-と国民自由党に分裂する)。それでも、薩長閥政府が民党の中で自らに近い勢力から順に、その要人を取り込もうとしたこと、民党が、要人の個人的な動きであったとはいえ、入閣の可能性を認識したことは、後の漸進的な政界縦断の下地になったといえる。