1.政権交代論

第3極・実業派の動き(③④⑥)~市部選出議員の会合と有志会解散の背景~

市部選出議員42名が1904年11月26日、工業倶楽部内の事務所で会合し、増税、新税等について意見交換をし、島田三郎(横浜市選出・28日に有志会を結成)、田口卯吉(東京市選出・有志会を結成)、奥田義人(鳥取市選出・同攻会)、横田虎彦(横浜市選出・甲辰倶楽部―元立憲政友会―)、山本幸彦(高知市選出・会派自由党)を選んで首相を訪問することとし、常務委員10名(浅野陽吉―久留米市選出・有志会を結成―、大戸腹三郎―岡山市選出・甲辰倶楽部―、浅羽靖―札幌区選出・有志会を結成―、金子元三郎―小樽区選出・有志会を結成―、森懋―和歌山市選出・立憲政友会―、横田虎彦―大阪市選出・甲辰倶楽部―、谷沢龍蔵―大津市選出・帝国党―、関野善次郎―富山市選出・憲政本党―、岡井藤之丞―岐阜市選出・帝国党―)を選出した(1904年11月28日付萬朝報。会計委員は佐竹作太郎―甲辰倶楽部―。選挙区、所属政党は筆者)。さらに11月30日、市部選出の32名が工業倶楽部内で市街宅地租について協議をしたこと、その多数が政府案に反対であり、賃貸価格の収入を査定し、その20%を課すという意見を立てた(税収は政府案より1200万円下がる)。織物税についても多数が反対に傾き、賛成派の求めによって議決が延期となった(1904年12月2日付萬朝報)。さらに2日、市部選出議員30余名が宅地租問題について、政府要求額を全国宅地(市街及び郡村)の賃貸価格に割り当て課税することを相当とすること、賃貸価格を調査、実行するに至るまでの半年から1年は、公定地価の15%としておくこと、その趣旨で政府、立憲政友会、憲政本党に交渉することを決議した。集まった議員の多くが織物税に反対する理由として、徴税方法が難しく、目的とする税収に達し難いこと、農家の副産業を絶滅させ、国家の生産力が落ちるということを挙げていた。以上について報じている萬朝報の12月4日付が、江原、田口、島田らだとしている。立憲政友会に属していた江原以外の2名は有志会を結成していた。市部選出議員の動きには、有志会のメンバーが少なからず関わっていたのである(会派に属していない市部選出議員が有志会を結成したのだから、当然と言えば当然だが)。なお、1904年11月25日付の東京朝日新聞には、市部選出の議員達が集まり、地租増徴案の修正、織物税、塩専売案に対する反対、輸入米関税非賦課問題に関する調査研究をすることなどを、決議したことが記されている。交渉委員に就いたのは、奥田義人、佐竹作太郎、浅野陽吉、金子元三郎、北村佐吉(堺市選出・立憲政友会)、山本幸彦、横田虎彦、島田三郎で、これに田口卯吉、角田真平(東京市選出・憲政本党)、奥野市次郎(立憲政友会)の常任幹事3名を加えて、交渉の任に当たることも決議されている(()内は筆者)。

以上の動きを見ると、市街宅地租の引き上げ幅が小さくされるなど、増税案が一部は修正の上で成立した後、市部選出議員が協力をする必要性が低下したのだと思われてくる。有志会の解散には、このことも関係しているのかも知れない。そして、市部選出議員が共に動いたからこそ、増税案が彼らに有利に修正されたということも、なさそうだ。そうであれば、無力感を持ったり、別の形で盈虚応力を強めようと考えても不思議ではない。これもまた、有志会解散の原因ではないだろうか。市部選出という共通点があっても、それを十分に生かすことができなかったということである。そしてそれは、無理もないことであった。市部選出議員全員が団結しても。379名のうちの、73名に過ぎず(北海道区部を合わせても76)、その全員が団結することも容易ではないのだから(ひとえに「市部」といっても、規模や地域の違いもあったのだし)。そして当時は衆議院において、2大政党・新民党と、吏党系・中立派・会派自由党の対立から、自由党系・吏党系と、改進党系・新民党の対立へ、さらには自由党系対その他の対立へと、構図が変化していく時期、その中で、名前を変えながら存続していたと言える中立派が、いよいよ消滅する時期であった(第10章で述べる。第10回総選挙後に結成された戊申倶楽部も、甲辰倶楽部と同様、多くが吏党系に合流して消滅した)。第3会派以下の再編もあった。そのような状況下、市部の一般的、平均的利益を、少数派として独自に代表することよりも、個々の理念や政策、時の権力に寄るのか対抗するのか、そしてどの勢力についた方が有利か、ということが重視されても全く不思議ではない。