日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・実業派の動き・2大民党制(②④⑥)~交友倶楽部の再結成失敗、有志会の結成と解散~

第3極・実業派の動き・2大民党制(②④⑥)~交友倶楽部の再結成失敗、有志会の結成と解散~

2つの新会派、甲辰倶楽部と無名倶楽部が結成された直後である1904年3月19日付の読売新聞は、旧交友倶楽部中、甲辰倶楽部に不参加の宮古啓三郎、大竹貫一、三輪信次郎、萩野左門、横堀三子が交友倶楽部を再興しようとしており、田口卯吉(元帝国財政革新会、進歩党、同志会、日吉倶楽部、中立倶楽部)、福地源一郎、島田三郎(元立憲改進党~憲政本党、日吉倶楽部、中立倶楽部)らが三七倶楽部なるものを組織しようとしていたことを報じている。前者は断念されたが、宮古、横堀以外の3名が新民党に加わっていった。後者は、総選挙後初の第20回帝国議会の会期が終わるまでには形にならなかったが、有志会という会派の結成に結実した。田口は薩長閥に批判的であったが、市部選出の自由主義者として、地租増徴継続を支持した。福地は帝国議会開設が決まった後、立憲帝政党を結成したことがあったが、衆議院議員であったのは、この当時(第9回総選挙後)だけである。田口と島田はこれまでも会派を共にしたことがあったが、両者と福地では理念が異なる。共通点は、市部選出の無所属議員であったことくらいだろう(田口と福地は東京市、島田は横浜市)。ともかく、第3極における会派の編成には、総選挙後の諸会派の結成の他に、もう一つの動き、もう一つの段階があったのである。大会派の再結成に失敗した福地は(本章第3極実業派の動き(②)参照)、既成の会派とは違うものを求めており、今度は市部中心の会派の結成を目指したのだろうか、あるいは、市部の議員を準与党的なものにまとめようとしたと、想像することもできる。

まず、交友倶楽部の再結成について見る。もともと明確な旗もなく、既存の中立派とは別に結成された同派の再結成は、実現しなかった(新潟進歩党系が参加していたためか、憲政本党の別動隊とされることがあったが―第8章第3極(⑤⑦)参照―、実際には立憲政友会出身者の方が多かった。しかし立憲政友会出身者の比率は、総選挙を経て大きく低下していた―交友倶楽部が存続した場合―)。三輪は1904年11月28日、田口達による有志会の結成に、宮古(壬寅会出身)は同日立憲政友会に、横堀(立憲自由党、憲政本党出身)は1905年12月23日に、吏党系の大同倶楽部の結成に参加した。大竹、萩野(共に旧大日本協会・政務調査所派、進歩党~憲政本党、新潟進歩党出身)、有志会に参加していた三輪は、1905年12月29日、同攻会の後継の(つまり筆者が新民党とする)、政交倶楽部の結成に参加した。結局彼らすらまとまっていなかったのだから、交友倶楽部を再結成することには、何の意味もなかったのだと言える。

次に有志会について見る。同派は、1904年11月28日に結成された。これは市部選出の議員達によるものだと言っても過言ではない会派であった。田口、島田らの市部の議員をまとめる動きが、ついに会派の結成にまで到達したのである(第8章第3極・実業派の動き(②)参照)。第7回総選挙以後無所属であり続けた両者が、中立倶楽部(第6回総選挙後)に属していた時以来の、会派所属となった。有志会は完全に市部中心の勢力であった。結成時の17名中、三重県郡部選出の辻実を除く16名が、市部、または北海道の区部の選出であった(区部は札幌区と小樽区選出の計2名)。農業関係者も少なくない甲辰倶楽部と比べ、実業派の色も強かったと言える。

有志会は1904年12月3日、3名(市部選出は1名)を加えて20名となった。しかし、14日に白勢春三が当選無効となり、28日に福地が離脱、翌1905年4月13日に田口が死去して17名となった。そして1905年12月23日、浅羽靖、岩本晴之、小山田信蔵、雄倉茂次郎、宮部襄、矢島中の6名が、大同倶楽部の結成に参加し(この時福地も参加)、残部が11名となって解散した(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に同派の解散に関する記述はないが、新聞各紙を見ると、大同倶楽部結成後は基本的に「舊有志會」とされている。大同倶楽部参加者が離れたことで、解散したのだと考えて良いだろう。解散の背景については本章第3極実業派の動き(③④⑥)参照)。そして29日に浅野陽吉、大縄久雄、小林仲次、島田三郎、高橋勝七、松本恒之助、三輪信次郎の7名が、同攻会系(同志研究会系)と、政交倶楽部を結成した。金子元三郎は無所属に留まり(第12回総選挙に大隈伯後援会から当選)、沢田佐助は1905年12月25日に、永見寛二は1906年12月23日に、辻実は1907年1月18日に、それぞれ立憲政友会に加わった(沢田がもし、桂の切崩しによって立憲政友会を離党していたのなら―第8章優位政党の分裂実業派の動き野党に対する懐柔、切崩し(④)参照―、結局同党に政権を渡した桂の、犠牲者であったとも言える)。有志会は最も右の極、中央右側の極(立憲政友会)、最も左の極に分かれたのだといえる。それぞれの議員達を見ると、政交倶楽部参加者の方が大同倶楽部参加者よりも、やや実業派の色が強い。大同倶楽部に行った議員6名のうち4名が立憲政友会または会派自由党の出身であり、うち2名を含む3名が、結局立憲政友会に移る。新民党に移った大繩も、さらに立憲政友会に移るから、解散時17名のうち、8名までもが、立憲政友会に行くことになる。新民党へいく議員は、大繩を除くと7名だから、上で述べたことと印象が異なり、優位政党である中央右の極と、最も左の極に分かれたと、長期的に見れば言えるのだ。新民党に移った議員のうち4名が、憲政会(憲政本党系の約半数、吏党系、新民党の一部が合流した「桂新党」の後継)に参加するから、より長期的に見れば、2大政党に分かれたのだと、言うこともできる。しかしこの当時には、中央左の極(第2党の憲政本党)に誰も行っていない。このことから、本来自由党系よりも市部に強かったはずの改進党系(憲政本党)が、市部選出議員、実業家の議員にとって魅力がなく、消極財政志向、対外強硬派という、かつての民党の役割りも、左の極(新民党)が期待される状況になりつつあったのだと考えられる。2大民党の一方の本流を汲む立憲政友会は、自由党の時代にも、かつての民党としての主張を事実上捨てていた。もう一方の憲政本党(改進党系)は、新民党と合流したこともあり、これを比較的よく維持していたが、路線について党内が一致できなくなっていく中で、同志研究会系という新たな誕生した新民党が、以前に憲政本党を離党した元新民党の議員達の一部も吸収していったことで、存在感を示しにくくなった。消極財政・低負担を志向して時の内閣に対峙するだけでは、もともと躍進につながっていなかったところ、さらに、より左の極(小規模で、会派止まりではあったが)との差別化に苦しまなければならない状況になったのである。

Translate »