1.政権交代論

第3極・実業派の動き(②)~甲辰倶楽部の性格について~

第3極・実業派の動き(②)~甲辰倶楽部の性格について~:甲辰倶楽部は、実業家の割合がやや低いように見えるが、中正倶楽部の後継会派であったという面が大きいため、中立実業派に分類した。しかし、第8章第3極2大民党制(⑤~⑦)で見たように、奉答文事件は、第3極における左右の別を明確にした。同志研究会→無名倶楽部が最も左の極であるように、遅くても、奉答文事件当時の中正倶楽部の時には、帝国党と協力関係にあった甲辰倶楽部は、最も右の極である(これとは異なる前山亮吉氏の見解については本章第3極・実業派の動き・新民党(③)~甲辰倶楽部の性格と同派の議員を追い詰めた政交倶楽部の議員~参照。「最も」とするのは、これまで見てきた背景がある―簡単には「はじめに」、『補論』⑦参照。吏党系は最も右で、新民党は最も左―)。それでも、甲辰倶楽部の大部分が山県-桂系を積極的に支持していたとまでは、また吏党系と近かったとまでは言えない。また、大成会の本流に当たる勢力のみを、ここでは吏党系としていることだし、明確に山県-桂系、第1次桂内閣を支持してはいなかった甲辰倶楽部については、あえて吏党系としたり、別のカテゴリーを設けたりせず、薩長閥寄りの中立実業派としておかざるを得ない。1904年3月15日付の読売新聞によれば、13日に井上角五郎(山県-桂系に寄り、立憲政友会を除名された―第6章⑰参照―)の自宅で、福地源一郎(かつて薩長閥政府支持の立憲帝政党を結成)、武藤金吉らが、有力な中立団体の組織を協議し、尾崎行雄らの中立各派と交渉して決定することとした。結局、尾崎は同志研究会の後継といえる無名倶楽部を結成し、彼らと行動を共にすることはなかった。井上と武藤は無所属から、福地は有志会を経て、いずれも大同倶楽部の結成に参加した。つまり、第1次桂内閣寄りの議員達が、さらに新民党も加えて、より大きな会派を形成しようとしたものの、失敗し、とりあえず結成されたのが甲辰倶楽部であったという面もある。しかし井上ら3名ともが甲辰倶楽部に参加していないことから分かるように、いつも通り、総選挙後にとりあえず、中立会派が結成されたのだという面もある(なお、井上と武藤は結局立憲政友会に戻る―第10章で触れる―)。このことに関して強調しておきたいのは、相変わらず、理念や政策と無関係に、民党にルーツのある2大政党以外の議員を少しでも多く集めようとしていた、ということである(もちろん2大政党の切崩しが出来れば、それも試みるとしても、そこに理念や政策はない)。

ここで、中立会派として結成された交友倶楽部についても述べておきたい。改進党系(憲政本党)の離党者と、自由党系(立憲政友会)の離党者による会派であった(結成時26名のうち立憲政友会離党者11、改進党系の出身者7名)。交友倶楽部は、奉答文事件の時、奉答文再議(内閣弾劾の部分を取り消し、通常通りの穏当なものを、改めて決議する)是非について、これを求める議員達と、反対の新潟進歩党系(つまり改進党系の離党者達)に分裂した(第8章第3極2大民党制(⑤~⑦)参照)。同派の秋山定輔こそは、奉答文事件の仕掛け人であった。結局交友倶楽部は、第9回総選挙後に、奉答文の再議を求めるような第1次桂内閣寄りの議員達と、その反対の新潟進歩党系・秋山に分かれたのだと言える。そして後者は対外強硬派の色が強かった。これも対外硬派の、薩長閥(山県-桂系)寄りと新民党寄りへの分裂の一部である。