3-07. 第3極の分類の型と第6回総選挙前までの党派の分類3.補論

7. 第3極の分類の型と第6回総選挙前までの党派の分類

第3極を担った勢力は数が多く、複雑な再編を経ている。しかしそれらは間違いなく、いくつかの型に分類することができる。分析するためにも、分類することによって、諸勢力の性質を多少なりとも示したい。

分類の型は以下の5つとし、補助的な型として、「その他の対外強硬派」を設けた。特定の勢力と明確には結びついていない勢力を中立とした。

・一般的中立:実業家が中心となったものを除いた中立の勢力

・中立実業派:実業家等の、経済界(の一部)の利害を代弁する議員達を中心とした中立の勢力

・新民党  :吏党、薩長閥に接近する民党を脱した議員等による、薩長閥(政府)に対抗する勢力

・吏党系  :議会開設当初の吏党(大成会、中央交渉部)の直系であり、第3会派以下の勢力に転落し、山県系の色を濃くしていった国民協会の系譜。野党であった場合も吏党系と呼ぶこととする。

・親薩摩閥 :吏党系ではない、薩摩閥と近い勢力

・その他の対外硬派:上の5つの類型に当てはまらない、対外強硬派の勢力(対外強硬派の議員達を多く含む政党、会派は少なくなかった)

 

分類は大まかなものであるから、一般的中立と中立実業派の区別以外は、明確な根拠があり、容易である。一般的中立と中立実業派の区別は、所属議員の中の実業家の議員の比率を基にすべきだと考えた。しかし、全ての所属議員の、議員であった当時までの経歴を判別することは難しい。また、何らかの、本稿で実業と捉えているものを営んでいた議員は非常に多い。そこで双方の区別は、議員の経歴を基に筆者が、自らの印象によって行った(一般的中立、中立実業派に限らず、分類の根拠は、基本的には『キーワードで考える日本政党史』の記述を参照のこと)。この作業の欠点を補うため、筆者の判断とは別に、存在していた当時に実業家中心の会派と報道されたものは、そのように見られていたことを重視して、それに準じた。

中立を、問題を抱えながらも2つに分けるのは、実業家の利害を代弁する中立派の議員達を中心とする勢力を、地主層を支持基盤とする議員など、他の中立的な議員達を中心とする勢力と、区別する必要があると考えるからである。双方のどちらであるかによって、志向に差異が生じるはずである。

ここで中立とする勢力にも、吏党と呼ばれたものがあるし、そのように扱った研究もある(第2次伊藤内閣に接近したことを批判する文脈においてではあるが、自由党すら吏党と呼ばれることがあった)。しかしここでは、薩長閥寄りというだけで吏党と呼ぶこととしない。帝国議会開設当初、第2会派(中央交渉部は時に第1会派)であり、中立性も持ってはいたが、薩長閥政府支持派を多く含み、第1会派の自由党系等の2つの民党と対抗関係にあった大成会と後継の中央交渉部、後者の多くの議員によって誕生した、明確に薩長閥政府支持を掲げて結成されたといえる国民協会(註1)の本流のみを、吏党系と呼ぶ。本稿で中立とする勢力には確かに薩長閥寄りであったものが含まれる。しかしそれは、本稿で吏党系とする勢力ほどには明確ではなく、中立と分類すべきだと判断したのである。

第3回総選挙の前までは、衆議院において、自由党系と改進党系という2つの民党(2大民党)、そして薩長閥政府を支持する議員達を含む会派(吏党)が並び立っていたと見ることができる。ただし議席数においては、立憲改進党が立憲自由党→自由党を、対等とするにはあまりに大きく下回っていた(吏党系は変動が激しいが、立憲改進党を常に上回っており、それも大きく上回っていることが多かった)。そして第4回帝国議会までは、衆議院における対立は、薩長閥政府と民党との間のものに終始した。このため、第3回総選挙の前までについては、薩長閥と民党の対立に関して中立であった勢力のみが、第3極を担う勢力であったといえる。しかし、新民党に分類した勢力も、これに加えたい。

新民党とした巴倶楽部、同盟倶楽部、同志倶楽部は、確かに民党の陣営にあった。しかし同盟倶楽部と同志倶楽部は民党間の連携を助けるという、独自の役割を果たそうとする勢力であった点(註2)を評価し、また2大民党が対立するようになった段階での新民党に対する理解を容易にするためにも、第3極として分析するべきだと考える。巴倶楽部は新民党の源流として念頭に置く必要があるため、()付きで第3極の新民党として分類した。

第1回総選挙後の自由倶楽部は、薩長閥政府に協力をしたものの、薩長閥側とはならず民党側に戻ったため、一般的中立に含めた。例えば東京朝日新聞も、同倶楽部を硬派とも軟派とも区別し、その向背が両派の勝敗を決するとしている(1891年6月17日付東京朝日新聞)。第2回総選挙後の東洋自由党は、党内抗争に敗れた大井憲太郎系の一部が、長州閥伊藤系へと接近していく自由党を脱して結成したのであり、彼らもまた離党した当時、薩摩閥に接近していた。しかし親薩摩閥の勢力であったとまではいい難く、政党として存在していた当時は進歩的な野党であった。この点を評価して新民党に分類した。

「その他の対外強硬派」に当てはまる勢力は、第2極の陣営にあったが、第3会派以下の勢力として分立していたから、その存在を忘れないため、一応補助的な類型としてまとめた。中国進歩党には立憲改進党の別動隊という面が強く、大手倶楽部は実業家が中心であり、帝国財政革新会には実業家の代弁者という面があったように(1894年3月11日付の東京朝日新聞が、尾崎三郎、田口卯吉らが結成する「實業團体」が帝国財政革新会と称し、趣意綱領を発表したことを報じている)、これらの勢力には、それぞれに特徴があった。脱落者はあったが、これ等の勢力が第2党に合流したのが、進歩党の結成であった。政務調査所は、立憲改進党との連携を志向していたわけではなく、厳正中立を志向しており(1893年11月21日付の東京朝日新聞と読売新聞は、芝集会所と東北組の代議士が、合同して政務調査所と称し、議会において厳正中立を守るという決議をなしたことを報じている)、結成後の第5回帝国議会において同党と対外硬派として連携するようになったものの、同議会は約1ヶ月で衆議院が解散される事態となったことから、一般的中立とした。後継の旧大日本協会・政務調査所派については、その他の対外強硬派とした。

第1回総選挙後の国民自由党は、協同倶楽部に参加していることからも、明確な薩長閥政府支持派であったといえる。第2回総選挙後、国民協会に参加しなかった中央交渉部の議員の一部が結成した井角組、実業団体についても、薩長閥政府側であったように見える(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部には井角組の人数は記されているがメンバーの氏名は記されていない、ここでは人数が同著と一致し、氏名が記されている、衆議院、参議院編『議会制度七十年史』政党会派編に準拠する)。しかし明確に薩長閥政府支持を掲げて結成されたわけではないこと、『板垣退助先生傳』等では中立に挙げられている(『板垣退助君傳記』第3巻389-390頁)ことから、()付で、それぞれ一般的中立と中立実業派に分類した。

5つの類型に該当する勢力は、時に無所属議員の連合体としての会派、時に既成の政党、会派の離脱者が結成する政党、会派、それらの後継の政党、会派として出現した。表補-Dは、第6回総選挙前までの、その一覧である。「その他の対外強硬派」も一応挙げた。

 

表補-D:第1回総選挙後から第5回総選挙後までの、第3極に該当する政党、会派

中立の類型 左の類型に属する政党、会派
・()内は、存在していた時期が第何回総選挙の後であったのかを表したもの(総選挙後の初めての議会までに再編を経たものについては、再編後の政党、会派のみを記した)
・太字は自由党系、改進党系、吏党系の離脱者が結成した政党、会派
・一般的中立の「東北地方選出議員中心の会派」とは、東北地方選出議員の一部による東北同盟会(①)、東北同志会(②)、東北団体(②)、同地方選出議員の一部に京都府選出議員の一部が加わった、厳密には東北地方選出議員が中心であったとまではいえない有楽組(②)を指す。
・第五回総選挙後の同志倶楽部のみ、明確に二つの性質を持っていいたため、二カ所に分類した。
・()内に記されている会派については本文参照。
一般的中立 自由倶楽部(①)、独立倶楽部(①②)、東北地方選出議員中心の会派(①②)、(井角組―②―)、溜池倶楽部(②)、芝集会所(②)、紀州組(②)、政務調査所(②)
中立実業派 (実業団体―②―)、中立倶楽部(③)、独立倶楽部(③)、湖月派(③)、実業団体(④)、実業同志倶楽部(④)、日曜会(④)、山下倶楽部(⑤)
新民党 巴倶楽部-①-)、東洋自由党(②)、同盟倶楽部(②)、同志倶楽部(②)、立憲革新党(③④)、東北同盟会(④)、同志会(④)、同志倶楽部(⑤)
吏党系 国民協会(③④⑤)
親薩摩閥 議員倶楽部(④)、国民倶楽部(④)、新自由党(④)、公同会(④)、同志倶楽部(⑤)
その他の対外強硬派 旧大日本協会・政務調査所派(③)、中国進歩党(③④)、帝国財政革新会(④)、大手倶楽部(④)

これらの中には、人的な連続性を見出せるものがいくつもある。複雑な再編を経ており、系譜を示すと図補-Aのようにはなるが、安易に本流を断定することはできない。詳しくは『キーワードで考える日本政党史』に譲ることとし、中立実業派の山下倶楽部、新民党の同志倶楽部、吏党系の国民協会(残部)に、再編と議員の大幅な入れ代わりを経て、第3極の諸勢力が整理されたことだけを述べておく。

 

図補-A:第六回総選挙前までの第3極の変遷

  は第3極の5つの類型に該当するといえる政党、会派。ただし国民協会が該当するのは第3回総選挙後。

・2名以上が共通する会派を「→」で結び、2名が共通するに留まる場合は、(2名)と付した。

・自由倶楽部は立憲自由党から離脱した議員達が結成し、自由党に合流した。

・一つ目の同志倶楽部は、自由党を離脱した議員達が結成した。

・議員倶楽部には自由党の離脱者も参加した。

・新自由党は自由党の離脱者が結成し、公同会を脱したが、その動きは省略した(その後同志倶楽部へ)

・同志会は進歩党の離党者が結成し、2つ目の同志倶楽部には進歩党の離党者が含まれる。

図③-A:薩長閥政府と主要党派の対立関係の変化

これら多くの政党、会派のうち、例えば衆議院の定員の10%を超えたものは、自由倶楽部、国民協会(第3回総選挙後も1895年までは超えていることが多かった)、立憲革新党、公同会、山下倶楽部の5つである。ただし、10%を超えるほどの勢力でなくても、第2回総選挙後の独立倶楽部のように、キャスティングボートを握って、状況を大きく動かした会派もあるため、ここでは、議席数の多さによって第3極を担った勢力をふるいにかけることはしない。それでもこの5つの勢力が、上記の5つの類型に分散しているのは、それでも興味深い。順に、一般的中立、吏党系、新民党、親薩摩閥、中立実業派に、10%を超える勢力が現れたこと、山下倶楽部が結成された時には、第3極に他に10%を超える議席を持つ政党、会派が存在しなかったことは、第3極において大きな変化の末、実業派の台頭が起こったことを示している。