日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係(⑤)~対露講和を契機とした薩長閥と自由党系との再接近~

1列の関係(⑤)~対露講和を契機とした薩長閥と自由党系との再接近~

2大政党は、講和条約批准を拒絶することは国際信義に反するとして、容認した。条約を承認する権限は帝国議会にはなかったから、これを直接無効にすることは、そもそもできなかった。実際には、帝国党を含めて各党とも、不満足であっても、現実として認めざるを得ないという立場であった。しかし桂総理と取引きをしており、対外強硬派でもなかった立憲政友会の原らは、実は肯定的であったと言える。

帝国党と立憲政友会執行部が割り切って支持、立憲政友会の非上層部と憲政本党が、1列の関係はしっかりと存続していたと言える。これについては、原敬の日記によって確認することができる。調印の約1ヶ月前、8月1日付には、大石が西園寺に語ったこととして、以下が記されている(『原敬日記』第2巻続篇260頁)。

戦後も擧国一致の實を擧ぐる爲めには政府に於て政黨と共に政事をなす、即ち聯合内閣を組織する事を兩黨より政府に申込み政府之に應ずれば善し、應ぜざれば彼より一致を破るものなるにより兩黨提携反對するの口實を生ずべし

2大政党が協力しており、かつ政権を目指していた様子は、憲政党内閣ができる前の状況を思い出させるが、2大政党が薩長閥(山県-桂系)に代わって、直ちに自らの政権を樹立することに、憲政本党の大石正巳はこだわっていなかったようだ。また、憲政党結成前は、2大政党の議席数がほぼ同じであったのに対して、この当時は一定の開きがあった。

9月18日付の原の日記には、同日彼と会った大石が、2大政党と薩長閥による、伊藤内閣の成立を志向していたことが記されている(同276頁)。「藩閥と聯合」するといっても、立憲政友会の伊藤前総裁を頂く第5次伊藤内閣であれば、山県-桂系の影響力はかなり抑えられる。伊藤が憲政党内閣を実現させた張本人であったことも考えると、憲政党内閣の成立にも似た、薩長閥から民党系への政権交代となる面が、小さくはなかったのである(あとは、伊藤の独裁に近づくか、2大政党の指導者または執行部との、合議制に近いものとなるか、であった。前者であっても、薩長閥中心の政権とは言えない)。しかし原は立憲政友会の主張が憲政本党のそれよりも第1次桂内閣に近いことを重視しており(同208頁)、政権獲得の、本来ライバルであるべき憲政本党と組み続けるのではなく、自身の立憲政友会の地位向上(与党入り→政権獲得)に単独で動く意思を強めた(もともとそのような志向であったと考えられる)。桂総理も、1904年中にも、憲政本党ではなく立憲政友会に協力を求める姿勢を見せるようになっており、さらには立憲政友会の西園寺総裁を次の総理に推す意向を示している(同206頁等)。原は、第1次桂内閣と連立を組むか何かの関係がなければ、「國民の聲に雷同するの外なし」と―同235頁―、つまり反対運動に与するしかないと、得るものがなければ党内が納得しないという形で、桂に警告をしている。また、戦後経営に関することで反対されたことを受けて辞任するつもりであった桂に対して、原はより早期の、講和談判決了後、あるいは通常議会閉会後の交代を求めた(同262頁・8月14日付。山県が反対しても、ならば山県が総理になるべきだということになれば、その意思のない山県も、西園寺内閣を認めるしないと、桂はした-同265頁-)。

桂は西園寺を自らの後継とする一方、憲政本党が与党となることは認めなかったわけだが、その背景には、憲政本党が(全体としては)立憲政友会より左であったことと共に、政権交代が、薩長閥が民党に政権の座の明け渡すようなものとなることを、避けようとしたことがあると考えられる。原は、8月14日に桂と会い、後継内閣を西園寺に譲る意思を確かめている(同261頁)。立憲政友会は憲政本党と違い、自らの政権を成立させようとしていたのだ。それも、憲政本党(大石)のように強硬的にではなく、山県-桂系から、円満に政権を譲り受けることを目指していたのである。もちろんその方が、貴族院の協力も得やすかった。14日の原の日記には、原が憲政本党と連立せず、桂らと提携することを、反対党の存在が国家のためになること(つまり西園寺内閣では第2党の憲政本党が野党であるべきだということ)と共に、桂に伝えている。確かに、2大政党対薩長閥では、衆議院は事実上の1党制に近いものとなり、そのような状況と、衆議院対貴族院という構図が変化するのに、より長い時間がかかることになる。また原は、政党内閣と称することの不可、連立内閣の不可等を桂から伝えられている(同262頁)。9月1日の日記には、憲政本党が政府の失計を責める決議を、なさざるを得ない状況であるとする大石らが、立憲政友会が同一歩調をとることを望んだものの、原が明確な返答を避けたこと、憲政本党と提携することが立憲政友会にとって不利であると考え、深入りを避けようとしていたことが記されている(同271頁)。9月17日付によれば、原は伊藤に、2大政党がそれぞれ独力では内閣を維持できないこと、薩長閥も今後は、2大政党なしに政事をなすことができないこと、3大勢力のうち2つを合わせれば「天下の事甚だ為し易」いということを説明し、立憲政友会と現当局者(つまり山県-桂系)との提携を主張した。伊藤は、同感だとしつつ、憲政本党の一部を加えることを提案した。原は異分子を生ずることは不可だとした(同274~275頁)。原は、伊藤が3分子の連合を望んでいると見ていた(立憲政友会、山県-桂系、そして憲政本党)。原は上述の9月18日の日記において、大石正巳の第5次伊藤内閣構想について、伊藤にその意思がないことと共に、当局者を刺激して児玉内閣ができる(つまり児玉源太郎が総理大臣となって、薩長閥政権が続く―それを吏党系、会派自由党、憲政本党反主流派が支持するということもあり得た―)危険性があると、説得した。大石は、それならば立憲政友会だけでも政権を得て、憲政本党はそれと提携するとし、2大政党の合流を口にしたが、原は時機ではないことを諷示した(同276~277頁)。原は10月20日の日記に、犬養が2大政党による遊説を提案したものの、松田正久が慎重な姿勢を示したことについて記している(同283頁)。憲政党内閣成立前と違うのは、自由党系(立憲政友会)が単独で与党になろうとしていたことなのだ(政党としては単独だが、薩長閥との連立という面も)。薩長閥の理解を得るためでも当然あったのだが、憲政党大分裂の当時から、例外はあるとしても自由党系自体が、単独内閣を目指していたのだと言える。

立憲政友会にも第1次桂内閣に対して強硬的な議員はいたが(例えば同279~280頁。10月4日付)、原は抑えることに成功した。ここで大きな分裂をしなかったことは、第1次西園寺内閣成立のための重要な前提であったと言えるだろう。大分裂どころか、立憲政友会からは当時、衆議院議員個人の離党もほとんどなかった(唯一の例外は、1906年1月に除名された望月右内。松田の後任の議長候補は総裁一任となったが、望月は自由党系の本流ではない長谷場純孝とすることに反対し、杉田定一を推して党内で遊説をした。結局長谷場が辞退して杉田が候補となり、望月は除名された―1906年1月17日付東京朝日新聞―。長谷場は立憲革新党、進歩党、鹿児島政友会の出身であったが、もともとは自由党の議員であり―第2回総選挙後に離党して同志倶楽部を結成、2大民党が合流した憲政党の結成に参加、同党分裂後は無所属となり、立憲政友会の結成に参加した)。

こうして第1次西園寺内閣が成立したわけだが、憲政本党が、立憲政友会の優位性を認めた上で、与党になることを目指すことしかできなくなったのが印象的である。議席数を考えれば当然のことなのだが、この当時は議席数で政権が決まるわけではなかったから、これは重要なことである。選挙があれば議席数は変動するが、憲政本党がいきなり立憲政友会と渡り合えるだけの躍進をすることは、不可能に近かった。同志研究会の系譜は味方となり得たが、さらに、その他の勢力と組まなければ、憲政本党が立憲政友会に対抗することはできなかった。しかし、それまで野党的な姿勢を採っていたのだから、立憲政友会のように方針転換をするのでなければ、それは難しかったし、憲政本党には、与党になることを期待することができるような、方針転換のための機会がなかった。そして立憲政友会の方針転換は、周到に用意されたものであったが、長く野党であり、党内が二分化していた(路線転換を求める反主流派に対して、主流派が譲歩すれば、党内の力関係に大きな変化が起こる可能性があった)憲政本党には、それも難しかった。1列の最後尾の苦しみは、増すばかりであった。結局、第5回総選挙後とは逆に、協力関係となった2大民党の系譜は合流をせず、第3会派以下の、吏党系(第3党だが第6~5会派)や、中立実業派が合流したのである(帝国党以外では不参加も一定数あった)。この再編には、自由党系の力が強くなったことが表れているという面もある。合流は反2大政党の動きであったが、自由党系(立憲政友会)の側かどうかという面はこの当時から実はあり、その後ますますそうなっていくのだ。そして自由党系の強さの要因は、薩長閥との政界縦断へ動き、伊藤系との合流を実現をさせたことにある。伊藤は立憲政友会を離れたが、立憲政友会の自由党系らしい路線を成功させる能力を持っていた原敬は、政界縦断、つまり伊藤系と自由党系による立憲政友会の結成によって、自由党系に加わった政治家であった。憲政本党の大石は、2大政党で組まないと大同倶楽部に勝てないと考えていたのだろうが、原はそれならば大同倶楽部を切り崩してしまえ、という考えであった。そして原の考えを実現させるには、より強い存在になるために、政権を握る必要がある。そして、そのために2大政党が組まなければという強硬論ではなく、立憲政友会単独で、まずは薩長閥に接近するという、理念(薩長閥支配を終わらせて政党内閣を実現)よりも現実(薩長閥と妥協し、政党内アックへ少しずつ前進)を重視する姿勢をとった(もちろん選挙では自由党系と改進党系が主にぶつかるのだから、そもそも立憲政友会には、なかなか政権を(返して)くれない薩長閥と帝国党よりも、憲政本党に反発する議員が少なくなかった)。この2大政党の違いは、自由党系を改進党系よりも、ますます優位にした。現実的→(より)優位に→現実的→(より)優位にと、螺旋階段を登るように、自由党系は政党内閣の定着へと、漸進していたのである。改進党はまだ、そのための道具に過ぎなかった。確かに議院内閣制ではなく、薩長閥の非政党内閣が基本であった日本において、政党間で政権交代のある政党内閣の常態化を要求するのは無謀であった。第5回総選挙後の、2大民党等による憲政党の結成も、まずは優位政党が政権の中心になるという、構想であったと言える。

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