1.政権交代論

世代交代(⑤)~山県、伊藤、板垣から桂、西園寺へ~

『原敬日記』を見ると、伊藤博文と井上馨が、薩長閥と2大政党による、挙国一致的内閣を志向していたことが分かる(第2巻続篇270頁等)。立憲政友会を政権の中心にするとは言っても、拒否権を持ってはいても(註)、同党が自由にふるまえるわけではなく、元老の容認の上で、前内閣の方針を維持しなければならない。桂と西園寺は世代交代を実現させたかったのだと考えられるが、両者とも急激な変化は望んでおらず、しばらくは「元老に政権を任せてもらう」というスタンスをとるしかなかった。また、下の世代が世代交代を進ようとすることには旧世代に対抗する面が含まれるため、新世代の桂、西園寺の協力が不可欠であり、この点で、純粋な政党内閣の実現はまだ、不可能に近かった。世代交代と言えば、薩長閥、自由党系、改進党系という、一応3大勢力の1つとし得る改進党系では、誕生当時のリーダー、大隈重信がまだ指導者であった。これがどのように変わっていったのかということも、見なければならない。やや先走るが、大隈は党指導者の地位を追われる。板垣もすでに同様であった。しかし山県、伊藤、板垣と違って、大隈は大正期に入ってから総理大臣を務めており(大正3年-1914年-~)、その内閣では、改進党系の約半数や吏党系が合流した、立憲同志会が与党第1党であった。

註:立憲政友会が拒否権を持っていた背景には議席数の多さ(ただし当時は過半数割れ)に加え、一時は日露講和反対運動への参加の有無(たとえ全党的ではなくても)もあった。