日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補論㉑註

補論㉑註

註1:民党の一部と吏党を合わせて、衆議院において過半数の賛成を得ようとする、切り崩し工作の1つの形であったといえる。新井章吾ら大井系の一部は海軍拡張を棄権するにとどまったが、野島幾太郎『新井章吾先生』336頁によれば、これは彼らが自由党を脱する一因となった。

 

注2:これには藩閥内、吏党系(井上角五郎)から反発が起こった(1892年6月2日付伊藤宛伊東書簡-『伊藤博文関係文書』二210頁―)。藩閥と1つの民党、その丸ごとの協力の難しさを示す一件であったといえる。

 

註3:政界縦断の動きが、主要勢力の内部に拒否感を伴うような、目新しいものでなくなればなくなるほど、第1、2党の双方が、これを成功させて政権に入ろうという意気込みを強めるため、薩長閥対民党という構図をつくることが難しくなると考えられる。

 

註4 :自由党の『黨報』第111号の4~8頁「大阪實業家の將來」は、大阪の有力な実業家の自由党入りを促している。これは1896年6月28日の発行である。約1月半前の1896年5月11日付の読売新聞には、自由党が他の地方で行っているように、大阪築問題を餌に、市吏員、実業家を抱き込もうとしていると記されている。具体的には、工事費の半額に上る国庫補助の承諾に尽力し、彼らに自由党加盟を頻りに誘導しているというのだ。国庫補助は第2次松方内閣期の第10回帝国議会において実現している。実業団体の中埜廣太郎(大阪府第5区)、秋岡義一(同第4区)、南野道親(同第6区)が自由党に移ったのは同じ1896年の1月と早いが、築港問題、あるいは別の利害関係が影響していた可能性がある。

 

註5 :前田蓮山『政變物語』326-327頁。前田は公同会について、当時の高島鞆之助陸軍大臣が、「進歩党を牽制するために企てたもの」だとしている。

 

註6 :国民協会は、政党を背景とした入閣に否定的な立場を採りつつ、功臣としての入閣に理解を示し、功臣を網羅する内閣を提案することで、その苦しい立場を明確にしている(1896年4月27日付読売新聞)。1896年4月26日付の東京朝日新聞は、国民協会について、板垣入閣を強迫的強談、悪例を千歳に残すものとしたものの、直ちに運動を起こすか、しばらく内閣の成り行きを見るかは未定だと報じている。同5月5日付は、反対だが運動はしないという、同党の姿勢について報じている。国民協会は自由党に対して批判的な姿勢を見せたものの、伊藤系、自由党と明確に対立したわけではなかった。

 

註7:第4次伊藤内閣期については、1898年4月24日付東京朝日新聞。第2次山県内閣期については、1898年11月26日付東京朝日新聞。後者は、政府に(自由党系の憲政党との連携に否定的な)「頑固論」があり、そのような者に注意を与え、なお頑強であれば、やむを得ず憲政党と連合して反対の方針を採ると、国民協会の「有力なる謀代議士」が言ったことを報じている。これは国民協会の一致した考えではなかったであろうが、そのような議員がいたのである。大岡育三か彼と近い議員であったと推測できる。

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