1.政権交代論

補論⑭-2

註6:1903年2月14日付東京朝日新聞、『原敬日記』第2巻続篇70頁(1903年4月18日の記述)。なお総選挙後に除名された議員のうち、少なくとも板倉中については、その理由が公表されていなかたったようだ(1903年4月29日付読売新聞)。

 

註7:1903年6月6日付の東京朝日新聞等に掲載された、同志研究会を結成する山口熊野、小川平吉ら11名が出した脱会理由書は以下のように、彼らの離党が、桂・伊藤合意に反対したためであったことを明確に述べている。

今若し妥協の必要ありとせんか宜しく先ず政府をして全然此の主張を容れしめざるべからず然るに彼の妥協案をなるものを見よ兩整理金額は單に一百萬圓に止まり其他は毎年五百萬圓餘募債と生産専業の縮小に頼らんとするに過ぎざるにあらずや僅々百萬圓の整理是れ果して政友會の主張なる乎特に夫の増租に代ふるに募債を以てするが如きは即ち是れ直接の増租を避けて間接の負担を諾するもの其大政を弄し國民を欺く亦甚だしからずや

 

註8:1903年12月22日付の東京朝日新聞に掲載された自由党の創立宣言書には下のようにある。なお、結成時の自由党の前議員の数は、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に記されていない。自由党は政党として正式に結成されることなく、会派に留まったまま解散したため、ここではこの発起人総会を以て会派としての自由党は誕生したと捉え、結成時のメンバーを記事にある、加盟が決定した前代議士のリストに準ずる。

立憲の邦國、必ず政黨あり政黨ありて而して後、始めて憲政の運用を全くするを得、夫れ政黨なるものは不抜の主義と一定の政網を有せざる可らず、是れ吾人夙に唱道する所なり然れども歳月の久しき、現存政黨なるものヽ漸く自ら情弊に陥り、而して尚は時に政黨を無視するの有司ありて、是が撲滅を策するに至る、政黨も亦徒に權勢利便に急なるや、殆ど其本領を顧るに暇あらず、或は其方向を二三にし甚しきに至りては他の頤使に供せらるヽに至る概するに堪ふ可けんや、抑々天下の輿望を負ひ敢て有司の失政を鳴らし、自ら進んで其責任の地位に立つ、是れ固より其所なり、是に於て吾人は基本に反り、遂に主義政網を基礎とする所の新政黨創立の急務なるを知る、乃ち吾人は敢て所見を披瀝し、茲に天下に檄告せんとす、吾人は所謂自由主義を執り、之を今日の社會に應用し以て貧富兩者の調和を圖り國民をして各其所を得せしむるに在り政網は即ち開國進取の皇謨を體して内は敎育の普及を計り農工商の發達を保導し、外は國家の自衞、及利權の擴張、一に退嬰を容れず、國交固より平和を重んずと雖も、東亜時局の解決の如きは、寧ろ國力を賭して之に當らざる可からざるを信ず其他政網の解説、政策の篠目及び黨制は更に審議討究結黨式學行の日を期して之を天下に發表すべし、今や議會解散せられ、國民共適從する所を知らず、

前半の部分からは、桂・伊藤合意への反発が表れている。

 

註9:原敬日記第2巻続篇70頁(1903年4月16日のもの)に次のようにある。

此革新派なるものは渡邊國武に關係したる信州派及び其中にても桂に買収され居る龍野周一郎等の一派、田村順之助、持田若佐等の栃木邊にある政府に款を通じ居る者の一派と森久保等の一派と全く無邪気にて革新を唱へ居る一派(此連中は書面を公にしたる者多く加はる)より成立ち、必ずしも各派合同したるものにもあらず、故に或は之を鎮撫する事難きにあらざるべしと思はる、兎に角大部分政府に買収されたる腐敗の者多し、渡邊一派とは板垣も関係し居るならん、

この中で、原が「政府に款を通じ居る者の一派」として第一に名を挙げた田村は自由党の結成に参加している。同111頁の同年10月16日の日記に「土佐派並に政府の使嘱に応じたる新政党も殆んど立却地なく」とある。自由党となる勢力、又はその一部が「新政党」と呼ばれていたから、自由党参加者の少なくとも一部が桂側と通じていた可能性が高いといえる。自由党は実際に、1905年12月に山県系の帝国党等と合流して、大同倶楽部を結成する。

 

註10:『立憲政友會史』第1巻282頁は田村順之助、高橋庄之助、前衆議院議員の堀内賢郎が除名されたとしている。立憲政友会を除名されたか離党した者の中になんらかのことを画策している者があるようで、同党に留まっている者の中で現状に不満を持つ者が外部と通じて同党に不利となることを謀る者があり、これを本部が最も警戒し、党紀上看過すべきでないと認めて除名処分を断行したとしている。