1.政権交代論

補論⑭註-3

註11:1903年12月8日付の東京朝日新聞は、「中立議員中の一派幷に新潟同志會其他の人々」が交友倶楽部を組織したとしている。ここでの「中立」は無所属という意味に近いのかも知れないが、新潟進歩党系は特にどちらかに明確に与したということはなく、交友倶楽部に参加した立憲政友会離党者等も、基本的には同様であった。ただし対外強硬派の新潟進歩党は、立憲政友会との提携に反対する憲政本党内の対外強硬派と近く、第1次桂内閣にとっては有用な存在であった。また交友倶楽部には、多数が河野広中の奉答文の修正を決めるなど、第1次桂内閣寄りの姿勢も見られた。ただしその所属議員の秋山定輔は河野に奉答文事件を起こさせた張本人であり、また1903年12月12日付の東京朝日新聞によれば、新潟進歩党は再議に付すべきではないとした。秋山と新潟進歩党系には対外強硬派という共通点があった。

 

註12:例えば1898年11月11日付の大隈重信宛の書簡(早稲田大学史資料センター編『大隈重信関係文書』三294~295頁)から、加藤が政党内閣を志向していたことが分かる。そこには次のようにある。

果て然らは進歩自由両派の権衡論の爲め遂に破裂の不幸を見たることかと存候。此々る些少事の爲め折角成りたる議院政府か顛覆するに至りたるは爲国家痛惜至極、閣下に於ては無上の御遺憾に可有之と不堪恐察候。但し自由派との御連合は如何にも人造的薄弱のものと相見へ、早晩分裂は免るへからさる樣被存候処此の如く急に其事之れあるへしとも見へさりしに、何分残念千万のことに御座候。新内閣は、又無遠慮にも藩閥の大物を以て併立てたるものに有之、此次は多分伊藤の再動、其次には又閣下の御順となるは必然のことに可有之、其節は真正の御同志の〔み欠―編者―〕にて純粋の議院内閣を組織せられ度、自今不堪御望候。

 

註13:1893年12月15日付萬朝報。河野は後には第2次伊藤内閣との提携を進めるが、この当時、薩長閥との接近を目指していたことは確認できない。河野は、自由党を離党して同志倶楽部に加わった鈴木萬次郎とは同郷の盟友であった(1894年1月3日付読売新聞)。両者は福島県の出身であり、河野は、同県と同じ東北地方の青森、秋田両県内から選出された自由党議員全7名が参加した同志倶楽部に、近いと見られていた(ただし1名は結成3週間後の参加である)。村瀬信一「明治二六年九月の自由党九州遊説」が、帝国議会開設当初の星亨と河野広中の志向の違いについて詳しい。帝国議会開設前の大同団結運動に関われなかった星亨と、その中心的な役割を担うようになった河野広中との差異の他、1893年9月の自由党の九州遊説において、河野広中が遊説を担当した宮崎県と鹿児島県の選挙区から選出された自由党の衆議院議員のほとんどが、同志倶楽部の結成に参加したことも指摘されている。また、河野広中関係文書によって、河野が長谷場純隆(同志倶楽部)に脱党を促されたことも明らかにされている。

 

註14:『立憲改進黨黨報』第3号44頁に、「改進自由兩黨の連鎖を以て自から任ずる同盟倶楽部は、」とある。また、角利助『第四議会報告談話』14頁に以下のようにある。

自由改進の二黨は従來の往き掛り上其感情に於て相容れぬ所がある、數年來此二黨の間に起りたる爭論の歴史は一朝一夕の事に消除せらるべきにありません、然るが故に二黨直接の交際は往々衝突の勢を免れず其談論に圓活を欠き協議熟談の纏まるべきにあらず、同盟倶楽部其中間に介立し彼此の衝突を避けしめ交渉の調和を謀る、而て二黨も亦た此一部に對しては隔意なく平心虚意に其説を容るヽことも多くありました。之が調和の必要より起りて本倶楽部の三派交渉に重を有する所である。

自由党の『黨報』第50号の22~23頁によれば、同盟倶楽部の川島宇一郎、中村彌六、柴四朗が委員として自由党の本部に来て、3派(自由党、立憲改進党、同盟倶楽部)の交渉、協力を申し込んだが、板垣が立憲改進党の行為(自由党批判を指すと考えられる)を問題にし、自由党はこれを受け入れなかった。無名氏『吁第五議会』9頁に以下のようにある。

一たび公會演説に於て改進黨を攻撃したれば自由黨の改進黨に對する惡感情は公然世人の前に表白せられ爾來互ひに相離隔して所謂る民黨の聯合は次第に其望みを失ひ第五議會に於ては開會前、同盟倶楽部が其間に周旋したるにも拘はらず自由黨は斷然改進黨と斷ち

角利助『第三期議会』は中立の立場を誇るものであった。これを『第四議会報告談話』と比較すると、同盟倶楽部は、薩長閥と民党の間に立っていたものが、2大民党の間に立つものに転換したのだという印象を持つ。

 

註15:所属議員14名のうち、東北同盟会系の2名、新自由党系の2名、新井章吾は明確に民党の陣営の出身であるといえ、鹿児島政友会7名のうち2名は立憲革新党から進歩党の結成に参加した議員達であるから、同様である。鹿児島政友会に参加した鮫島相政も、『鹿児島懸政黨史』(283頁等によれば民党側であった。