日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補論⑮註-2

補論⑮註-2

註6:1902年4月26日付の東京朝日新聞によれば、菊池、徳佐、奈須川の復党が決定したという。他にも復党する方向だと報じられている議員が少なからずいるが、当時は憲政本党の党報が発行されておらず、同年8月には総選挙があり、実際に復党したのかを確認することは難しい。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部で復党したことを確認できる議員は、衆議院議員の任期満了の前に復党した杉下太郎右衞門、室孝次郎、第7回総選挙後に復党した菊池九郎、徳差藤兵衞である。また、三四倶楽部を結成した議員達のうち、結成以後初の総選挙である第7回総選挙以後に当選しているのは10名である。このうち5名が同派の後継である同志倶楽部を経て憲政本党に復帰している。他には1名が同志研究会の系譜を経て憲政本党と合流し、また1名が、立憲同志会の候補として衆議院に返り咲いている(杉下と室は第7回以後の総選挙に当選していない)。阿部恒久氏は、会長の楠本正隆が1902年2月7日に死去したことで、三四倶楽部が求心力を著しく欠くものとなったとしている(阿部恒久『近代日本地方政党史論―「裏日本」化の中の新潟県政党運動』274頁)。

 

註7:例えば1898年5月14日付東京朝日新聞。改進党系では立憲革新党との合流を機に、東北地方選出の議員が増えていった。その東北地方の議員達が不満を持っていたのである。

 

註8:1902年9月4日付東京朝日新聞。阿部恒久氏は、三四倶楽部の新潟組の旧改進派が、第15回帝国議会終了後、早期に憲政本党に復党したかったものの、旧革新派に連なる佐藤宗弥(第6回総選挙で新潟県第四区から初当選)等の策動によって、できなかったとしている(阿部恒久『近代日本地方政党史論―「裏日本」化の中の新潟県政党運動』276頁)。

 

註9:1902年11月18日付の東京朝日新聞に次のようにあり、三四倶楽部、本来の改進党系の、消極財政志向を受け継いでいたことが分かる。

新潟進歩派は本日大會を開き出席者百五十餘名にして左の決議を爲せり

一行政及び財政は根本的整理を期する事

一増祖継續及び諸般の増税に反對する事

一國力に伴はざる陸軍を縮小し海軍の第三期擴張に反對する事

 

註10:1903年12月1日付の東京朝日新聞は、秋期大会において坂口仁一郎派が突然、新潟進歩党を解党して憲政本党に復帰することを可決したが、衆議院議員で復帰するのは坂口のみになりそうだとしている。坂口を除く衆議院議員は、事実上は復党していないのかも知れない。この党内対立の背景には、上の記事によれば紊乱問題があった。しかし同年11月30日付の同紙は、同党が党大会において全会一致で復帰を決定したことを伝えている。これが秋期大会であったろうから、実際には全会一致ではなかったか、坂口に反発した勢力が出席していなかったとも考えられる。なお、紊乱とは、1903年12月2日付の同紙によれば、臨時県会における県参事会員選挙において、同党以外の当選者が出たことであった。また記事によれば、党の評議員会において、坂口が党紀紊乱の責任をとって幹事辞任を申し出て、大多数で解党、憲政本党への復帰を可決、反対者は新党結成を決めた。新潟進歩党は憲政本党に近く、他の勢力との連携を否定しない坂口らと、そうではない大竹らに分裂し、同志倶楽部の新潟進歩党衆議院議員は全員が後者に含まれていた、ということは確かだろう(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部によれば坂口仁一郎は5月28日にすでに同志倶楽部を脱し、無所属となっていた)。

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