日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
2大民党制・第3極(⑧)~日露戦争後の2ブロック化~

2大民党制・第3極(⑧)~日露戦争後の2ブロック化~

第1次西園寺内閣の成立時にはすでに、第22回帝国議会が開かれていた(1905年12月25日召集、28日開会、1906年3月27日会期終了)。大同倶楽部の協力を得た立憲政友会が、入閣によって辞任した松田衆議院議長の後任を得た。第1党の立憲政友会が議長、第2党の憲政本党が副議長を出すという形は維持され、全院委員長も引き続き、憲政本党が得た。しかし、予算委員会の委員については、立憲政友会と大同倶楽部は、2大政党と大同倶楽部の3会派で占めようとした。これには、按分とはするものの、政交倶楽部は団体を為していないという理由があった。政交倶楽部が団体でないというのは、単なる有志議員の集合体であり、一定の政派とは認められないということであったようだ(1906年1月19日付東京朝日新聞。立憲政友会の言い分として報じている)。しかし大同倶楽部も、帝国党、会派自由党が核となって結成されたとは言えるものの、会派自由党は正式に政党として結成されていたわけではなく、大同倶楽部の所属議員の多くは、会派に過ぎなかった甲辰倶楽部、有志会からの参加者など、無所属候補として当選した者達であった。なにより、大同倶楽部は政党ではなかった。したがって、野党色の強い政交倶楽部を排除するための理屈であったという面は、否定できない。憲政本党は、予算委員会の委員を引き続き2大政党で占め、他の常任委員会の委員については、他の会派にも分配することを唱えた(註)。立憲政友会の原内相は、全て按分比例という立場で(ただし団体をなしていないとして政交倶楽部については憲政本党に諮っている―日記には「清交倶楽部」と―)、2大政党の提携は解消される見込みとなった(『原敬日記』第2巻続篇308頁-1906年1月17日付。解消の見込みとなったのは、憲政本党との連立ではない、第1次西園寺政友会内閣が成立したためだろう)。結局、予算委員会の委員についても、全会派に按分されたのであったが、立憲政友会・大同倶楽部(中央右の極と最も右の極)と、憲政本党・政交倶楽部(中央左の極と最も左の極)の2極構造化が垣間見られる出来事であった(常任委員長は引き続き立憲政友会が独占)。桂園体制下、それを担う勢力と、そうでない勢力が対立関係になったのだから、自然なことではあった。大同倶楽部からは離脱者が出ていたが、会期終了日(1906年3月27日)を見てもなお、憲政本党の98議席の約4分の3以上の、76議席を持っていた。第4会派の政交倶楽部は36議席に過ぎなかったから、憲政本党と政交倶楽部の連合は、過半数を優に上回る立憲政友会と大同倶楽部の連合の、敵ではなかった(それを多少補い得るような、院外の運動も起こらなかった)。かつて、野党連合から自由党系に抜けられてしまった改進党系(立憲改進党)と、その当時の新民党が合流してできたものが、進歩党→憲政本党であったと言える。その憲政本党が、再び新民党と合流するのは、不自然なことではなかった。しかし1901年、三四倶楽部が旧新民党(立憲革新党)出身の憲政本党離党者等によって結成されたことを考えてみても、合流は容易ではなかったと言える(政交倶楽部にはその離党者の系譜も含まれていたし、合流後に、党の主導権を巡る不満が起こること、本来は似ていても、政策等の差異が生じることは十分に考えられた)。1906年1月16日付の東京朝日新聞などは、政交倶楽部が憲政本党に合流するという説があるものの、同派に絶対に同党と和合できない者(立憲政友会出身者には、憲政本党入りしたくない者、地盤の関係で移れない者も少なからずいたと考えられる―筆者―)、党紀、党則の制限を甘んじない者もあり、政交倶楽部全体が憲政本党に合流することは不可能であること、予算案、各種の問題については、なるべく同一歩調をとるように、双方の間に立って奔走する者があるらしいことを報じている。この当時の衆議院の2ブロック化(2極化傾向)は、左に社会(民主)主義勢力がなかったから、戦後の西欧諸国でみられるような、右派ブロックと左派ブロックというものとは異なる。日清戦争の前後、自由党と、立憲改進党を中心とする対外硬派とが、対立関係にあったのと変わらず、自由主義対自由主義の対立であった(衆議院を見れば。薩長閥を含めて見れば、保守対自由という面を見出せるが)。そしてそもそも、この、日露戦争後の2極化は、定着しなかった。それでも、後の2大政党制への歩みの第一段階とでもし得るものであり(筆者は2大政党制が良いというよりも、政党間の政権交代へと歩んだことを評価する)、2大政党と同志研究会系対、その他(官党や中立派)であったところ、第1、2党が対立する、より自然な形になったことは、長期的に見れば進歩であった(短期的に見れば、また自由党系が裏切って、権力を握る薩長閥にすり寄ったという、マイナス面が大きい。ただし、2大政党間の政権交代が実現する背景には、当時容易に予想できるものではなかった立憲政友会の大分裂があるため、マイナス面に注目することイコール長期的視野に立つことができていない、とまでは言えない)。

註:第21回帝国議会では、松井源内以外の予算委員会委員、他の常任委員会の全委員が2大政党の所属であった(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部によれば、松井は無所属から大同倶楽部の結成に参加、その後政交倶楽部に移ったのだが、1904年3月4、5日付の東京朝日新聞は、立憲政友会の候補としている。開会当初はまだ立憲政友会の所属で、予算委員会の委員は、同党の独占状態であったのかも知れない)。他の常任委員会の委員には、甲辰倶楽部の議員が計1名、無所属議員が計1名いたが、もちろん按分ではなかった。

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