日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
新民党(⑧他)~新民党の不統一~

新民党(⑧他)~新民党の不統一~

政交倶楽部は、減債基金の設立と非常特別税の継続に反対し、行政整理による国民の負担軽減を唱えていた(1906年1月28日付萬朝報)。これは憲政本党(の主流派→非改革派)と同様の方針であった。しかし政交倶楽部では、鉄道国有化法案を始め、多くの案件で内部を一致させていなかった。2月12日付の萬朝報は同派について、大同倶楽部よりもさらに雑駁且つ無統一であることが、議会における行動から分明だとした上で、憲政本党中心の新政党組織に熱心なのが河野広中、安岡雄吉らで、憲政本党に入るより、むしろ立憲政友会に入ろうとする尾崎行雄、他の風下に立つことを嫌悪する島田三郎、大竹貫一がおり、まとまって憲政本党中心の新政党に参加することは、望めないとしている(1906年2月12日付萬朝報)。議会最左派の勢力であっても、古巣に復党したくなる議員はいる。そうでない議員にも、独自の勢力であり続けようとする議員達と、自らに近い、他の野党と合流しようとする(同志、研究会系-当時は政交倶楽部-にとってそれは、政党化を意味していたと言える)議員達がいた。このような状況には、現在との類似性がある。与党に寄ろうとする議員達と、野党間の連携を模索する議員達がいて、後者の中でも、実利より理念を重視する議員達であるからこそ、他の野党との合流の是非が問題となるのである(もちろん、選挙区事情なども関係するが)。

もう一つ述べておくと、新民党は、反薩長閥という点では憲政本党の非改革派と近く、反政友会という点では、憲政本党の改革派と通じる面があった。ただし憲政本党についてそう簡単に言いきることはできないし、新民党の、特に立憲政友会の離党者には、憲政本党(改進党系)よりも立憲政友会(自由党系)に近い議員もいたから複雑だ。

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