日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振・1列の関係(⑧)~桂園時代の「野党吏党」の立場~

(準)与党の不振・1列の関係(⑧)~桂園時代の「野党吏党」の立場~

大同倶楽部は、憲政本党と対外硬派として連携することには、否定的であった。1907年6月15日付の読売新聞は、同年の府県会議員選挙に際して、憲政本党が外交、財政問題について政府を攻撃しようとしており、桑港問題を利用して大同倶楽部と提携しようとして、安田勲が同派の臼井哲夫(中立倶楽部-第6回総選挙後-出身)、大野亀三郎(帝国党出身)両幹事と面会したことを報じている。しかし、両者は個人としては賛成だとしつつ、代議士会を開いた上でなければ回答し得ないとしたのだという。桑港問題とは、大地震が起こり、多くの校舎が損害を受けたサンフランシスコ(桑港)で、日本人移民の学童が排斥された事件である。日本人の排斥はカナダでも見られた。大同倶楽部はその後、この問題について決議をなしたが、それは、排斥がアメリカの大統領と国民の本意に背反するものだとし、日本政府の怠慢を批判するものであって、アメリカ政府までをも批判する方針の憲政本党とは、異なっていた。大同倶楽部は結局、憲政本党に回答しなかった(1907年6月19日付読売新聞)。憲政本党のような野党に、なったわけではなかったということである。薩長閥(当時は事実上山県-桂系)の方を見て自由党系、改進党系と並ぶ1列の関係において、吏党系の大同倶楽部は薩長閥に一番近いものの、あくまでもその付属物である。政界縦断(伊藤系との合流)も実現させた自由党系(立憲政友会)が力を強める中、これに対抗しようとする山県-桂系(もともと強者であり、それは変わってはいなかった)、改進党系は手を組めないわけではなかったが、1列の関係においては、薩長閥から遠かった改進党系が、まずは歩み寄るしかなかった。上の大同倶楽部の姿勢は、それをよく表してもいるのであり、付属物としては、独自の動きはしにくかった。

Translate »