1.政権交代論

第3極・(準)与党の不振・1列の関係(⑧)~吏党系と民党系の接近~

1907年2月28日付の東京朝日新聞は、大同倶楽部中に、地方の関係上憲政本党との永久的提携を好まない者がおり、柴四朗、駒林広運、武市庫太、是永歳太郎らが、郡制廃止案に関する協力は止むを得ないとしても、そのために将来の提携を約束することには反対であることを報じている(個々の具体的な事情は確認できていないが、柴は前年に、憲政本党から移って来たばかりであった。1907年6月27日付の読売新聞も、双方の提携が成ったという報道があっても、実際には憲政本党改革派と大同倶楽部の、「幹部の急進組」に限られた動きであるという見方をしている。また29日付の同紙は、憲政本党の「領袖株」と大同倶楽部の「黒幕」の間は、意思の疎通を欠いているとしている。記事は大同倶楽部が憲政本党のことを、「政權に渇喰したる餓鬼の如し」などとしており、大同倶楽部に対して不快感を持つ憲政本党員も、少なくないとしている。さらに7月3日付の同紙は、大同倶楽部の領袖の一人が語ったこととして、同派には選挙区の関係で憲政本党に近い議員もいれば、立憲政友会に近い議員もおり、憲政本党と提携すれば、立憲政友会と近い議員の選挙運動に影響が出る恐れがあるとしている。吏党系が立憲政友会出身者や中立派と合流したことにより、このような制限は強まったと考えられる。国民協会→帝国党にそのようなことがなかったわけではないが、様々な議員が集まり、状況がより複雑になったということである。特に立憲政友会離党者には、長年改進党系と対立してきた議員、立憲政友会に戻りたいと考える議員がいた。一方で、離党したからこそ、立憲政友会と相容れない議員もいたであろう。おそらくそのような状況であるため、3派鼎立し、冷静に問題の可否を研究し、一方と一時的に組むことはあっても、終始提携することはないということを、その人物は語ったのだが、大同倶楽部は本来、中立性に乏しい勢力であった(中立派の議員も参加したが、本章で見ているように、あるいは前章までで見たように、彼らの多くも第1次桂内閣寄りであったと考えられる)。衆議院では独自の勢力であったとしても、政界全体においては山県-桂系の勢力であったことは明確であった。そのような勢力が、選挙区ごとに立憲政友会と近かったり、憲政本党と近い、あるいは相容れないというのでは、単に中立としてふるまわざるを得ないというだけである。選挙区によって、2大政党のいずれかに気を遣わなければならない、あるいはいずれかと敵対関係にあり、それが全体的には一致していない会派というものも、あり得ないわけではない。しかしそれは、党中央が明確に存在し、組織がしっかりあるか、そのような組織化の努力をしながら、しっかりと立ち振る舞えば、ある程度は、おのずと整合性が取れてくるものである(議員の出入りを伴うことも当然ある)。しかし、薩長閥とのつながりこそあるものの、それに乏しく、政党化すらできていなかった大同倶楽部は、2大政党を軸とする2極化に飲み込まれたのである。山県の鼎立構想の要素、つまり第3極として一定の存在感を示すことすら難しい状況であった吏党系は、皮肉にも、薩長閥寄りであるという伝統から、薩長閥に対する真の挑戦者(薩長閥にとにかく抗おうとする勢力とは違う)となるだけの力をつけつつあった立憲政友会と、対抗関係になることが避けられず、同志研究会の系譜よりは改進党系に近いこともあり、改進党系の憲政本党と接近せざるを得なかったのである。主要政党が3つ以上あっても(大同倶楽部と同志研究会系は政党ではなかったが、それに準ずるものと見られていた面がある)、結局、大まかには2分化する傾向が現れるというのは、他国を見れば、ごく普通のことである。

石塚重平の死去(同年8月12日)に伴う、1907年9月19日の長野県郡部の補欠選挙では、憲政本党、大同倶楽部、猶興会の共闘が実現した。しかし3党派が推した堀内賢郎(元立憲自由党→自由党衆議院議員)は、立憲政友会の小林万次郎に敗れた(小林は、もともと憲政本党が候補者に口説いていた人物であった―1907年9月24日付東京朝日新聞―)。長野県の郡部は立憲政友会、憲政本党、大同倶楽部の衆議院議員の数がほぼ同じであり、少なくとも第1次桂内閣期には、いずれかの勢力が優位にあるという状況ではなかった。そのような選挙区で、左の極から右の極までが協力する画期的な体制がとられたのだが、立憲政友会に及ばなかったのである。なお、憲政本党、大同俱楽部、猶興会の協力は、いくつかの県会議員選挙でも見られた(1907年9月11日付東京朝日新聞。福島県、山形県、岐阜県、滋賀県で実現し、山梨県他でも続々非政友会連合が形成されようとしていると報じている)。大浦と共に大同倶楽部の後見人であった関清英(茶話会貴族院議員、元検事、佐賀、群馬、名古屋県知事、無所属衆議院議員―第7回総選挙で佐賀県郡部から当選―)は、憲政本党との提携が恒久的なものではなく、大同倶楽部が結成時から3派鼎立を主眼としており、個々の問題で意見が一致する場合は、どの党派であっても行動を共にするべきだということを語っていた(1907年8月9日付読売新聞)。8月4日、猶興会、憲政本党、大同倶楽部による、非政友会同志大会が開かれた。ここで会長となった猶興会の河野広中は、与党が多数であることで、第1次西園寺内閣がますます専横の態度を現していると批判をした(1907年8月9日付読売新聞)。

補欠選挙の約1週間前、1907年9月13日付の東京朝日新聞は、猶興会の人物が次のことを語ったことを報じている。それは、猶興会と大同倶楽部は、主義、精神において全く相容れないものの、現時の政界において最も腐敗、堕落の因をつくり、各種の弊害を生んでいるのは、現政府党である立憲政友会であるということだ。つまり同志研究会の系譜は、吏党系よりも、立憲政友会と対立するという姿勢を強めたのである。優位政党があれば、他の多くの勢力による、反優位政党連合が生まれるものなのである。衆議院の力が限られていた当時、それは衆議院内にほぼ限定された動きではあったが、自由党系の力が、衆議院の外へあふれれば、政界全体に広がるものであった。「あふれてくる」というのは、当時すでに内閣の中心であったから、そうであったようにも見えるが。薩長閥に生殺与奪の権を、事実上どの程度握られているかということに、かかっていたと言える。立憲政友会中心の内閣は、第1次西園寺内閣も第2次西園寺内閣も、薩長閥の力で倒れるのだから、その意味ではまだまだであったということだ。なお、薩長閥と自由党系が完全に一体化するような動きがあれば、衆議院の内外で、それに対抗しようとする勢力が形成されていただろうが、吏党系は薩長閥・自由党系につかざるをえす、力の差があまりに大きすぎるため、2極化とは言えないものとなり、おそらくその強すぎる、大きすぎる薩長閥・自由党系連合が、元の通りに、あるいは別の形で割れ、その先に、2極化の傾向が現れたのではないだろうかと想像する。