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政治リーダーを批判、比較する時には・・・

吉村知事のポビドンヨードを含むうがい薬によるうがいの推奨と、テーブルにその商品を並べて、その効果を大々的に発表したやり方が、批判を招いた(ここでは踏み込まないこととするが、様々な問題点があり、軽率であったと筆者も考える。ただし批判をし過ぎると、政治家がチャレンジすること、目立つことを避けるようになることの弊害を、深刻なものとしてしまう)。吉村知事のその他の発言等も含めて、がっかりしたという人もいるようだが、「そんなものだ」とあきらめるのではなく、見て見ぬふりをするのでもなく、冷静に見ることが重要なのだ。

原発事故を含む東日本大震災への対応について、菅直人総理(当時)を批判する人は多いが、仮にその通り失敗であり、菅直人の責任を明確にする必要があるのだとしても、どうすれば良かったのかということを、前向きに議論することも重要だ(後からは何とでも言えるのだという謙虚さが、評論家らにも必要だ)。

なぜこの例を挙げたのかと言えば、その1995年の阪神淡路大震災の内閣対応と関係があると、思うからである。当時は社会党が総理、第1党の自民党が副総理を出す、自社さ連立政権であった。少し前まで自衛隊を認めていなかった社会党の村山総理が、そのこともあり、後手後手に回ったのではないかと批判された。その時、菅直人は与党さきがけの議員であった。それから15年、総理大臣が積極的に動かなければ批判されるという前例が、もちろん原発事故の深刻さと合わさって、菅直人総理の背中を強く押したのだと、筆者は考える。このことを批判し過ぎると、次の震災の時(考えたくはないが)、今度は総理が慎重になり過ぎてしまう危険がある。

1党優位の日本において、政権交代定着への最も重要な過程である、貴重な貴重な政権交代。これは本当に大切にしなければいけない。問題が起こるのは当たり前であり、重要なのは、なぜ起こったのかを冷静に分析し、経験無き政権に必要なものを見出すこと、そしてそれを、次の次の(一度優位政党に政権が戻ったその次の)、「経験乏しき政権」に、生かす術を見出すことである。もし仮に鳩山由紀夫や菅直人が、よく言われるように最悪の総理であるのなら、なぜ野党第1党が彼らをリーダーに選ぶしかなかったのか、あるいはなぜ彼らの政党が野党第1党になったのか、分析することである。

吉村知事のうがい薬の問題について考えるのは、どの知事が優れているとか駄目だとか、比較が始まったことの影響である。実績を比較して評価することはもちろん、悪いことではない。しかし規模も、置かれた状況も異なる自治体の長を、短期的にさかんに、しかも「テレビや雑誌、新聞の目立つ企画」として比較することは、比較する側にその意図がないとしても、そして目立とうとすることを批判してすらいても、首長達を、短期的に評価されそうなことに走らせる危険がある。

吉村知事が「比較されるから目立とうとした」というのはさすがに安直だが、ワクチンの2020年内、それも9月の実用化をぶち上げた(追記:実際には全く達成できなかった)ことは、大阪府民を安心させる効果はあるとしても(それが裏切られれば不信に変わりかねないのだが)、話題になることを狙った、過剰演出であると思う。そうでなければ、疲れから思考能力が低下しているとしか、考えられない。

道州制を実現させた場合も、各州の知事がこのような形でやたらと比較されるのは心配だ。自分達が良く評価される限りは、維新の会もその弊害を無視して、それに乗るのではないだろうかと、心配になる。学校を競わせるような、維新の教育政策が、数字上の事に限らずうまくいっていれば、その心配は少し小さくなっていたのかも知れないが、これこそ、人間が考えるやり方で強引に色々いじっても、うまくいくとは限らない、リスクが大きいという、保守派の一つの土台となっている考えの、正しさを示しているように見える(社民系も皆無であった昔に生まれた考え方だが、この場合維新は左翼ということになる)。

もちろん、各州それぞれ事情が違うからといって、比較しても意味がないとするのも問題だ。だがまずは、地方議会とその選挙を、今よりももっと有意義なものとすることが重要であるように思う。小選挙区制が素晴らしいとは思わないが、一人の候補にしか投じられない単記制の選挙で、選挙区の定数(当選する候補者の数)があまりに多いのも問題だ。