日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
万年野党の支持基盤を続けてきた連合の、不満も分かる

万年野党の支持基盤を続けてきた連合の、不満も分かる

戦後、労組の連合体は2つあった(これらの全国中央組織をナショナルセンターと呼ぶ)。戦前の総同盟(友愛会→大日本労働組合総同盟友愛会→日本労働総同盟。戦時中は戦時体制―大日本産業報国会―に組み込まれた)を引き継ぐ同盟(日本労働組合総同盟)と、共産党の影響下にあった産別会議(全日本産業別労働組合会議)だ。戦後、労組の結成、活動は法的に認められるようになり、国民の意識も変化した。このため、戦前と比べて労組の数、参加者は、爆発的に増えた。このこともあって、規模の上では産別会議の方が、同盟よりもかなり大きかった。しかしその後、共産党に反発して産別会議を離れた労組が、同盟と合流して総評(日本労働組合総評議会)を結成し、産別会議は縮小した。産別会議はさらに、GHQに命じられて、1958年に解散するに至った。総評の結成は1950年だが、この時の総評は、後の総評と同一の組織ではあっても、かなり異なる。むしろ、今の連合に当たると言ったほうが良い。

総評はアメリカの意図もあり、親米の、穏健な連合体として結成されたが、内部に左派を含んでいた。それもあって、朝鮮戦争勃発を前にして、再軍備が問題となり、戦時、戦前の記憶が改めて鮮明となる中、総評は左傾化の傾向を見せた。さらにサンフランシスコ講和条約締結の前、東側諸国を除く講和を受け入れるか(単独講和)、社会主義国を含む講和を目指すか(全面講和)、左右の溝が広がった。さらにその後、総評が左派社会党支持、そして反共労組による国際的な組織(それまでの国際的な組織から分裂する形で結成)に加盟しない事を決めると、溝は決定的なものとなり、右派が離脱した(右派の労組の連合体は再編によって何度か名称が変化した後、全日本労働総同盟という名称となった。一般には同盟と呼ばれる)。なお、同時期に社会党も、日米安保条約反対では一致したものの、講和問題では一致できず、左右に分裂している(1991年に分裂、1955年に統一、1959年に右派の多くが離党して、翌60年に民社党を結成)。

なお、右派というのは戦前、労働組合も弾圧を受ける危険があった時代、なんとか藩閥系の政権、政党(広義の保守政党)が中心の政権と折り合いをつけようとしていた勢力の系譜だと言える。これに対して、戦前からの左派は、もっと権利を主張すべきだとして(一部は単に反発心から?)、これらの政権と対峙しようとする立場であった。

・戦前の政党と労組       ・戦後の政党と労組

 

こうして、社会党・総評ブロックと、民社党・同盟ブロックが形成された。総評は公務員の組合が中心、同盟は大企業の組合が中心であった。その上で、1強多弱の政治(民社党に続き公明党も誕生し、野党の多党化が進んだ)、支持政党が政権を永久に取れなさそうな状況を憂慮して、同盟と総評が1989年に合流したのが、連合(日本労働組合総連合会)である。この連合の中には、かつて共産党支配を嫌って産別会議を離れた労組も、含まれているわけである。

一方、産別会議は消滅したものの、共産党系の労組は、全労連(全国労働組合総連合)という連合体を形成するに至った(全労連としては1989年結成)。そして総評の最左派も、1989年に全労協(全国労働組合連絡協議会)を形成した。これは社会党の左派、そして与党になった社会党を離党した最左派による、新社会党を支持した。社民党(社会党が改称)が民主党と社民党残留派に別れた後は、新社会党(国会では議席ゼロに)と共に、社民党全体の支持基盤となった。

一度さかのぼるが、戦前というのは、欧米で労働組合運動が盛んになり、公認もされ、社民系の政党も躍進していた時代である。欧米で社民系の政党が与党(の中心)となり、遅れてロシアでは、社会主義革命がおこった(この違いは、ロシアが西欧と比べて遅れていたことによる。国家が、産業についても政治体制についても、ある程度発展していなければ、封建体制に組み込まれやすい小作人や農奴は多くいても、労働者が少なく、民主的な政権はもちろん、権限のある民選の議会も存在し難い。それでは、議会を通じて被用者のための政策を実現するという機運は、高まらない)。

工業化等が遅かった日本では、労働組合員が少なく、そもそも労働組合、社会民主主義者も弾圧される危険があった。社会主義者は明確に弾圧の対象であった。その戦前の影響、そして戦前の体制が、悲惨な戦争、敗戦に行き着いた事から、日本の左派勢力(労組、社民~社会主義)の中では、朝鮮戦争を受けて日本の再軍備も問題になる中で、左派、左派的な主張が力を持った。社会党では、戦前には極端に不利であった左派が、それゆえに、右派を上回るようになったのだ。

そのような状況は、社会主義政党の社会民主主義政党への脱皮という、欧米では戦前に済んでいた変化を、阻んだ。欧米では、社会主義政党が社民化し、その過程で最左派が離れた場合にも、残部だけで第1党になるだけの体力があった。それだけ工業化等が進んでおり、労働組合員も多く、労働者の意識が高かったのだと言える(雇い主の言うがままに保守系に投票しない。少なくとも労働者の権利が国家、保守系に認められるまでは)。

しかし日本の場合は、そうはいかなかった。【社民化を受け入れない人々が離れた社会党】では弱すぎた。時間をかけていればとも思うが、おそらく社民系が政権を取る前に、時代が変わっていただろう(非常に長く政権を取れない大政党というのは、失望による弱体化、新党の台頭を招く)。

なお、もし社会党系が、社会民主主義派と社会主義派に分かれていたら(「右派社会党と左派社会党に別れたままであったら」というのと近いが)、そもそも自由党系や改進党系が合流し、自民党を結成する必要がなかった。我々が知るのとはまた、別の未来が待っていたかも知れない。ただし、想像するのは楽しくもあるが、ここではあまり意味がないと思うので、別の機会に譲りたい。

ともかく1955年、左派社会党と右派社会党は、左派が優勢であった状況の下で合流し、その約5年後、右派からは多くが離党して、民社党を結成した(1969年まで正式名称は民主社会党)。この民社党も、一度も結成時の議席を回復できず、小党のような存在となっていった(結成時こそ衆議院40議席であったが、結成後初の総選挙を前に、社会党の浅沼委員長―社会党に残留した右派―が右翼青年に刺殺され、社会党に同情票が集まったことから、大きくつまずいたとされる)。

55年体制は、戦前と同じく中選挙区制(選挙区の定数が基本的には3~5)であったから、社会党は多くの選挙区で1議席は取り、選挙区によっては2名を当選させることが出来た(中選挙区制は1925~94年に、終戦直後の1946年の総選挙を除いて用いられていた)。それでは自民党には届きようがなかったが、そもそも戦前から、前身の複数の政党が各選挙区で根を下ろしていた自民党、利益誘導もできる大与党自民党に、社会党が勝つのは極端に難しかった。それなら変に現実的になったり、中道に寄ったりする「冒険」をせず、とにかく左の、理想主義の政党、反対・追及重視の政党として、目立つ存在となり、少数派の有権者の支持をしっかり固める方が、無難であった(政権は得られなくても改憲を阻止できれば一定の存在意義を持ち得る。議席は増えなくても、現職の議員達が当選を続けられる)。

民社党も小さかったが、主に都市部の、一定の選挙区で、確実に1議席を取ることが出来た(合計の議席は10~30議席台に過ぎなかったのだが、もし小選挙区制であったなら、単独では議席をほとんど得られなかっただろう。小選挙区制であった場合には、社会党も当選は非常に難しかっただろうが、そこで制度の効果が発揮され、社会党の中道政党化、他の野党との再編が起こっていたであろう)。

自民党以外の全野党が協力すれば、政権交代は不可能でなかったかも知れない。しかし共産党を含む全野党の選挙協力は、不可能に近かった(総選挙前から分裂によって過半数をかなり下回った1993年を除いて、自民党は二度、追加公認を抜きにすれば、過半数をわずかながら下回っていたことがある)。

そんな中、総評と同盟は展望を開こうと合流し、連合を結成した。欧米であれば、連合のような団体が支持する社民系の政党は、何度も与党を経験しているし、「万年」野党ではなかった。だからこそ労働組合は、与党の最大の支持基盤として、その主張を政権に反映させることが出来るし、支持政党が野党である時にも、一定の存在感、影響力があった。しかし日本では、労組は万年野党の支持基盤に過ぎない。

その上、公務員の組合が多い旧総評系が、やや理想主義的である一方、旧同盟系は大企業の組合が多く、それらは経営者寄りだと言われる事も多い。これでは合流しても、一枚岩にはなりにくい。総評系が支持する社会党、同盟系が支持する民社党が円満に合流するくらいの事がなければ、その弱点は克服し難い。両党が分立していると、どうしても選挙の時には、比例区はもちろん、少なくない選挙区で競合する面がある。1994年までのように中選挙区制であれば、また今も存在する参議院の複数区であれば、双方が当選する事が容易ではないが、制度上は可能であるため、候補者調整も進みにくい。無党派層等の、票を奪い合う関係にもなる。

旧同盟系が経営者寄りであった背景には、日本の労働組合の多くが企業別、事業場ごとにできていたことがある。戦後、民主化の中で、労働組合の結成が公的に許された。その中で、各企業、大きなところでは各事業場に労働組合ができた。日本の企業が、労働者が企業を横断して連携しないよう、また他の企業に移らないよう、労働者を企業内での訓練、多少の福祉で取り込んだ事、戦前からの、経営者側の分断策、抱え込み、戦時の協力体制が企業ごとに組織された事も、その背景にあった(労組の歩みなどについて、木下武男『労働組合とは何か』が非常に詳しく、分かりやすいが、これを書いている時点では、筆者はまだ読んでいなかった)。終戦後しばらくは活気があったようだが、やがて状況は変わった。企業別、事業所別の労働組合の方が、多くの企業、地域をまたがる労働組合よりも、経営者はコントロールしやすい。労働組合が強硬であれば、言う事を聞いてくれる職員に別の組合をつくらせることもできた。企業内の事であれば、多くの社員が上司、経営者ににらまれては困ると考えるわけで、経営者寄りの組合が主流になる(日本はまさに前述の経営者層の狙いから年功序列になった面も大きいが、その昇給にも上の評価が関係する。もちろん、もっと明確に見返りが用意される場合もあっただろう)。

確かに、戦後は日本がどんどん成長する時期であり、経営者層もある程度は、被用者の待遇改善を認めやすかった。経営者と被用者(年功序列の正社員)が一丸となって、企業を強くしていくことで、被用者の生活水準が、日本という国家と一体的に向上した。

しかしそれは、自民党の利益誘導政治と同じく、日本が大きく経済成長していくからこそ、うまくいく。少子高齢化も進み、利益ではなく、負担の分配を国民に強いる面が大きくなりやすい時代(しかもITの発展、グローバル化で格差は拡大し、「勝者」から税を取るのもますます難しくなる。上は政官財の癒着、下は従順な被用者に甘やかされた企業自体の、先進性の無さも深刻)。厳しい時代には、連合が経営者層と渡り合い、被用者を守る事が特に重要になる。経営者寄りであっては、それは難しい(その被用者というのが、ごく一部のエリートだけなら別だが)。

結局妥協策として、被用者の待遇の悪化を可能な限り食い止め(必要に応じて最低限の改善も進め)、そのかわり新規採用を減らし、足りない部分を非正規雇用で補う事となっているのだと言える。そして厳しい時代が続く中で、非正規雇用が増大し、「正規雇用は経営者に次ぐ、貴族的な身分」だとまで捉えられるようになった(特に公務員、次いで大企業)。

話を戻す。連合の結成から3年後、自民党では優位派閥であった竹下派が、後継争いのために分裂した。その一方であった羽田・小沢派は、自民党を離党し、野党と組む事を考えていた。この大チャンスに連合は飛びつき、同派への協力を約束した。こうして1993年には本当に、非自民・非共産の、細川連立内閣ができた。

ところが、この寄せ集めの内閣は、主導権を握っていた小沢派と、反小沢派に分裂した。反小沢派とは社会党と新党さきがけで、両党は与党内において、野党的なポジションになっていた。そして間もなく、自社さ連立が成立した。連合が支持する社会党と民社党が、与野党に分かれたのである(「股裂き」状態などと呼ばれる)。しかも、その一方、第2党であった社会党が、自民党と連立を組んだのだ。連合は確かに自民党の離党者を歓迎し、彼らと組んでいた。しかしそれはあくまでも、自民党を本気で離れようとしており、実際に離党したからであった。連合は、経営者の側の政党として、自民党と対峙してきた。その自民党と連立を組む事は、本当は認め難かった(社会党からすれば、新生党の小沢らこそ、自由党より自民党だという事だろう。小沢の新自由主義路線は連合、特に旧総評系の存在、考えとぶつかる)。支持政党が初めて明確に与党(総理を出している社会党)と、野党(民社党)に分かれた事も、もちろん深刻であった。分かれた状態で時がたち、特に選挙を戦えば、連合が旧総評系と旧同盟系に、分裂する危険があった。

この、連合にとって苦しい状況は、社さ両党(自社さ連立の与党)から民主党が誕生し、その民主党が野党化して、崩壊した新進党(野党)内の、民社党系(新党友愛)がこれに合流したことで解消された。社民党(新党さきがけとの合流に動いていた日本社会党が、社会民主党に改称)の残部は最左派だからとあきらめ(ただ、社民党を支持しなかったわけではないし、民主党の結成から今まで、社民党の議員らの民主党系への移動が、間を空けつつも続いている)、旧社会党・総評ブロックと、旧民社党・同盟ブロックの統一を実現させたと、安堵することが出来たのだ。(社民党の残部が残っていたとはいえ、)社会党系と民社党系の合流は、1959年以来約38年半ぶりの、分裂状態の解消であった。

この、大きくなった民主党が万年野党になる恐れはあったが、そもそも、連合とその前身が支持する政党が与党になった事など、それまでほとんどなかったし(終戦後間もなくの片山、芦田両内閣の計約1年半、冷戦後の細川内閣の約8カ月、片方だけが与党であった羽田~橋本内閣の約4年)、とりあえずは、支持政党が与野党に分かれているよりはましであった。与野党に分かれている事は、与党を通した政策実現、また、政権が交代した時のための保険にはなる。しかし与党であった社民党が分裂し、そこから誕生した民主党が不振に苦しみ、さらには野党化していった事(これら自体は必然であると共に、小選挙区中心の総選挙を前に、弱体化し、人気もなかった社民党を何とかしたかった連合の意図でもあるが)、新進党内にあった民社党系が、弱い小党として再結成された事から、そのメリットも小さくなっていたと考えられる。何より、繰り返しとなるが、支持政党が与野党に分かれている事は、連合が大組織としてまとまっている事を難しくする。それに連合の主張自体は、自民党にぶつける事も、一応は出来た。

ただし、民主党が新党友愛等を吸収した頃というのは、連合の中で、が社会党系、民社党系に見切りをつけて、自民党に寄ろうとする動きが見られた、警戒された時代でもあった。(五十五年体制終焉後のゴタゴタは、そうするだけの失望を招いて当然であった。ましてや旧同盟系は民社党を通して、旧総評系は社会党→社民党を通して、与党を経験していたし、前者は、五十五年体制の頃から自民党(中心の癒着構造)と近い面があり(※)、後者は、自社さ連立で自民党と協力関係になっていた。このような傾向を吹き飛ばすためには、民主党が安定的に存続する事、そして可能なら何より、与党になる事が有効であった。

※ もし1993年の自民党の分裂、動揺がなければ、自公民路線へのシフトが続いていたと考えられる。なお、自公民路線へのシフトが起こった背景には、社会党が左過ぎた事だけではなく、1990年の総選挙において、野党で一人勝ちした事もある。

 

その与党化が2009年に、ついに実現した。しかも自民党との連立でも、自民党の離党者による新党との連立でもなく、完全な、総選挙による政権交代として実現した(正確には、自民党離党者による国民新党との連立であったし、その支持基盤の協力もあったが、国民新党はもう約4年間も野党として存在しており、政局による政権交代というよりは、明らかに選挙による政権交代であったと言える)。連合はついに与党の、しかも与党第1党かつ政権の中心部の支持基盤に、股裂きもなく(社民党の残部も連立に加わっていた)、なることが出来たのである。他国では当たり前の事であるが、日本では奇跡、あるいは100年遅れの前進であった。

しかし、民主党政権は長くは続かず、その後の民主党は低迷、さらには左傾化した(旧同盟系等に不満がたまる)。最初なのだから、普通は再起を期待するしかないのだが、1党優位の日本ではそうはいかない。自民党が与党に戻れば、民主党は万年野党になる。ましてやこの時には、国民の民主党に対する失望が非常に大きかった(それは当然の事でもある)。

ところがそこにまた、小さな希望が出て来た。それが小池ブームである。当時、民進党(民主党と維新の党が合流)は不振に苦しんでいた(岡田代表時代に参院選である程度復調したが、護憲派として、他党と合わせても3分の1を割る結果にはなり、イメージの回復も、蓮舫新代表の二重国籍問題でふいになった。蓮舫がどうこうというより、少しのマイナスにも耐えられないほどに、左派の問題、左派に対する偏見、民主党政権の記憶と、その総括の不十分さが深刻であったのだと言える)。

その頃、小池ブームが起こっていた。そもそも連合からすれば、日本新党の出身で、かつて、非自民連立を象徴するような有名若手議員であった小池には、肩入れしやすい。小沢一郎らの新生党と、日本新党、公明党(一部を除き)、民社党、他の自民党離党者による党派が合流した党派が合流した新進党にも、小池は参加していた。つまり民社党系と、同じ政党にいた事があるのだ。

民主党系が失望される状況下、連合が与党の中心的な支持基盤になるには、自民党が民主党系以上に失望されるか、あるいは分裂するしかない。小池の自民党離党は、連合にとってはまさに、「夢よ再び」であった。左派の排除も、戦略的な是非は別として、旧同盟系からすれば、むしろ歓迎できるところがあったのかも知れない。彼らは、立憲の結成と躍進という、総評・社会党ブロックの逆襲が起こるなどとは思っていなかったのだろう。左派がただ、弱っていくと思っていたのだろう。そうすれば左派の議員(の一部)を排除しても、旧総評系の多くは、旧同盟系の動きに合わせるしかなくなる。民主党誕生の時も、社民党の左派は排除されたのに近い(首相等の経験者の参加を拒むという形が採られた。小池都知事も、これを細野豪志にテレビで言わせる形で行った)。

ところがこれも、大失敗に終わったわけである。民進党は、小池が結成した希望の党に参加する事を決めたが、これに参加しない(できない)議員、候補者達が立憲民主党を結成、参加した。総選挙前の前議員の数では、希望が57、立憲が15、総選挙でこれが逆転して希望50、立憲55となった(総選挙前後とも、民進党系無所属立候補-前議員-・当選は20強)。

とは言っても、どちらも50議席台に過ぎなかった。確かに合計すれば、無所属での当選者を含め、民進党系とし得る議員は約95から、120に増えた(民進党と無関係の希望の党の当選者を除いて)。これは2000年の民主党のレベルである(民政党、新党友愛、民改連合流後、自由党合流前)。しかし排除騒動、分裂によって生じた溝はやっかいであった。何より旧同盟系からすれば、希望の党が議席を減らした事はマイナスであった。希望の党には失速したというイメージが明確について、動揺は避けられなかった。結局民進党と合流する国民党と、新たな希望の党に分かれたが、小池は早々と手を引き、不参加者も多く出た(立憲や自民へ)、民進党と国民党が合流した国民民主党の多くは、立憲と合流した。結局、新たな希望の党はミニ政党と言えるものとなり、消滅。新たな国民民主党も、両院とも1ケタの政党となってしまった。

旧同盟系からすれば、旧総評系の軍門に下り(民主党への合流)、その先で影響力を強めたものの、また、旧総評系(旧立憲)の風下に立つような形になってしまった。今回(2021年)の総選挙で、その風向きが少し変わった(自ら変えようとして成功した?)とはいえ、いやそれをチャンスとして、自民党に寄ろうとしている。まあ、不思議な事ではない。かつての民社党だって、55年体制の終焉がもう5年遅かったら、自民党に合流していたのではないだろうか。

長々とこれまでの状況を書いたが、ここで述べたいのは、労働組合自体にも責任があり、連合に問題点、不十分な点があるとしても、これだけ苦労する労組(の最大の連合体)も、先進国にはないだろうということだ。特に旧同盟系からすれば、民主党政権が失敗してからというもの、不本意な事ばかりが起こった。左派野党の脱原発(東日本大震災以降)、軍事力強化反対路線は、旧同盟系の、原発、軍事関係産業の労組にとっては、賛同し難いものであった(主張そのものの、本来の良し悪しは別として)。

連合が民主党系に失望するのも分かるし、連合を裏切り者だと(筆者もそのような感覚を持っているが)、簡単には責められないという事だ。これを踏まえてしかしそれでも、これから批判する事になる。感覚が偏り過ぎないための確認作業を、ここでしておいたという事でもある。

 

旧総評系と旧同盟系→

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