日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
2009年の「奇跡」

2009年の「奇跡」

・もともと自民党が、比例代表では第2党になってもおかしくないくらい支持を減らしていた(背景に、それまでの自民党の、反対派―党内と官僚―への配慮、権力闘争、バランス維持のためのあいまいさ、行動力の無さ。この当時にはまだ、消えた年金問題に関する批判が強くあった)。

・自民党の支持を回復させたように見える小泉内閣だが、自民党の利益誘導政治をある程度転換したため、組織票が減っていた。特に郵政問題で、自民党の支持層に亀裂が生じ、本来の支持者の支持を得られない状況となっていた。

・自民党を離れた「郵政票」が国民新党を通して民主党側に入ることとなった。

・創価学会と自民党の協力関係に否定的な宗教団体が、民主党側に移った(今ほど民主党系が弱くなかったので、そうすることができた)。

・小泉内閣期のマイナス面だけ解消しようとする虫のいいやり方が、小泉改革を支持する国民の、自民党離れを起こした(例えば、郵政民営化法案に反対した議員たちを復党させたことで、第1次安倍内閣の支持率は大きく下がった)。

・共産党が資金的な負担の大きい、【全選挙区に候補者を擁立する方針】を改めたことで、反自民票を民主党が独占できるような選挙区が多くできた。

・郵政解散(とその後の反対派の復党)によって、自民党の議席が過去最高レベルにあった。このような大勝に今ほど慣れていなかった国民の多くが、自民党が強くなり過ぎることを危険視した。

・右から自民党を削り得る幸福実現党が、ほとんどの選挙区に候補者を擁立した。

・ねじれ国会、安倍(第1次)、福田康夫と続いた1年での総理辞任(ねじれ国会によって追いつめられたことが背景にあるが、国民は、参院の第1党となり、自民党を追いつめる民主党を責めなかった)によって、麻生新内閣の支持率は、当初からそこまで高くなかった。それでも組織票と合わせれば、十分民主党に勝つ可能性はあった。しかし麻生総理は、リーマンショックへの対応などもあり、支持率が高いうち、ねじれ国会で行き詰る姿を見せないうちに衆議院を解散するという事をしなかった。当時は総選挙から3年がたっていたから、解散の先延ばしは、有利な時に総選挙を行う事が出来るという自民党の強みをゆっくりと無力化していった。そしてついに衆議院議員の任期満了が目の前に迫ったが、総理・総裁へをとにかく人気のある議員に代えようという動きも広がらなかった(当時であれば、参院議員であったが舛添要一、あるいは女性の小池百合子といったところだろうか)。これらは民主党に非常に有利に働いた。なお、この時総裁の交代を唱えた議員の一人が石破茂であり、これは当然麻生の恨みを買い、野党の時に自民党を離党し、与党になると戻って来たという過去と合わせて、石破の党内での人望を失わせることにつながっていく。

・民主党も、さかのぼれば自社さ連立、非自民連立、55年体制下の自民党議員として、ある程度の与党経験はあった(与党経験の全くない若手の議員も多かった)。しかし民主党自体は、与党経験のない勢力と見られ(結成時などにそのような演出もなされた)、その分不安も持たれたが、自民党や今の民主党系のように、過去の失敗を問題視されることもなかった。

・【都市部に多い無党派層を引き付ける民主党】に、【保守層、農村部の有権者を引き付ける事の出来る存在であった、小沢一郎の自由党】が合流した。そして野党であったため、それによって生じ得る矛盾に、国民の関心が集まらなかった。なお、今の民主党系がこのような「いいとこ取り」をするのは難しい状況だ。

・右から自民党を削り得る幸福実現党が、ほとんどの選挙区に候補者を擁立した。

 

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