日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1党優位の傾向(①)~薩長閥、自由党系が「桂園時代」に求めたもの~

1党優位の傾向(①)~薩長閥、自由党系が「桂園時代」に求めたもの~

衆議院議員の任期満了による2度目の総選挙であったが(一度目は第7回総選挙)、立憲政友会の原内務大臣はこの総選挙を立憲政友会中心の内閣で迎えることにこだわっていた(1908年2月3日付東京朝日新聞)。県知事の一部も更迭、移動させている。増税をした立憲政友会は、恐慌の中、市部では議席を減らしたが、総理大臣を擁する与党という有利な立場から、インフラ整備等の利益誘導政治を求める傾向がより強い郡部では、むしろ議席を増やした(註1)。郡部の定数の方が市部のそれよりも多かったから、トータルでは立憲政友会は議席増となった。立憲政友会の中心的な人物であった原内務大臣は、過半数を上回ったしている(註2)。積極財政路線が行き詰まってはいても、その復活、継続を期待させる党派は、やはり立憲政友会であった。だからこそ立憲政友会は、総選挙の前には与党になっていたいのであり、それを薩長閥の要人に求めたのである(総選挙後もしばらくは与党なのだろうと有権者に思わせる事も重要であるが)。また、政党中心の内閣である点が、なお肯定的に見られたという事も立憲政友会の勝利の背景にあったのかも知れない。

 

註1:例えば升味準之輔『日本政治史2 藩閥支配、政党政治』161~166頁には、立憲政友会が与党時代、同じ愛媛県内でも、進歩派(改進党系)が強い地域とは別の地域で築港を進め、進歩派が反発した例(これを進めた県知事は、桂内閣になると交代させられている)、山形県で鉄道敷設が憲政本党を切り崩すのに利用された例が示されている。

 

註2:『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部の記述に基づいて数えると11月20日に上回るのだが、少なくともそうなる事はすでに予想できた。第10回総選挙の3日後である1908年5月18日付の原の日記には次のようにあり(『原敬日記』第3巻199頁)、未発表の入党者を得て195議席、少なくとも過半数(当時は190)に達したと捉えている。

入會して未だ發表せざる者あり、之を合する時は百九十五名となる計算なれども、広報と實際とには少しく齟齬せし分あり、乍去其過半數を得たる事は疑なし、

 

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