日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
実業派の動き・第3極(①)~実業派の決起~

実業派の動き・第3極(①)~実業派の決起~

この総選挙で特徴的なのは、党派の再編によって減少していた無所属議員の数が再び増えたことだ。総選挙の度に無所属議員が大量に当選する傾向を弱める事ができていなかったのだと言えるが、第5回総選挙がそうであったように、実業家が政治に対する関心を強めると、無所属議員が大きく増えるという傾向があることにも注目すべきである。そして、この第10回総選挙の前は、第5回総選挙の前よりも実業家の動きが活発であったようだ。総選挙当日から1年以上さかのぼるが、1907年2月7日付の読売新聞には、次のようにある。

實業家が政治と接近し來りしは近來の最も著しき傾向にて政治の興廢が實業の盛衰を左右すべきは今更云ふ迄もなきこと乍ら我國の實業家は昨年の鉄道國有に目を覺し近來又新事業の勃興と共に政治家の力を假るに非ずんば到底成功する能はざるを痛切に感じ其結果として實業家の中には來年度の總選擧に候補者として立たんとする者少からず既に密々相會して之が準備をなし居る者さへあり未だ斷結せる勢力とはならざれど若し有力者の之を利用して同盟する者あらば侮る可からざる大勢力となるべきを以て政治家も此際枕を高ふして眠る能はず代議士の如きも之が防禦策を講ずる爲め大に警戒中なりと聞く

既成政党と一体的でない実業家の中に、これまでになく、総選挙に対する積極的な姿勢を採る者がいたことが分かる。直接、立法に関与したい、政界の中で内閣にダイレクトに影響を及ぼしたいという思いが想像される、もちろんこれは、政権を獲得したいというのとは、(まだ)かなり違っていた。2月17日付の読売新聞は、東京実業組合連合会が推薦を決め、かつ総選挙の候補者となることを受諾したのが中野武営のみであったこと(三輪信次郎―当時は猶興会所属衆議院議員―は承諾しなかったのだという)、同会の内部で、東京市における商工業者の有権者が過半数を占めつつあるとして、同業者を少なくとも6名選出して、商工業党を組織しようという意見と、適任者がいなければ、自らの不面目を来す恐れのある擁立はせず、中野以外については党派を問わず、商工業者の同志を選出しようという意見があったことを伝えている。やはり独自に一定規模の勢力を形成するのは困難であったことが分かる。1908年4月7日付の東京朝日新聞は、全国商業会議所連合大会が候補とした人々を挙げている。それは次の通りである。順番は記事の通りとし、選挙区の次に当落を○×で(不出馬は「-」)、氏名の前に、当時衆議院議員であれば「⑨」、次の第10回総選挙で当選していれば⑩と記した。氏名の次には、所属会派の変遷(ない者は「-」)、当時衆議院議員でなかった場合、その当時、該当する選挙区の衆議院議員であった人物の氏名と、当時の所属会派を記した。ただし定員が多い東京市、埼玉県郡部については省略した(川越町は独立した選挙区になっていないので、埼玉県郡部として見る)。博多は福岡市選挙区のことである。

東京○ ⑩中野武営 :立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党→戊申倶楽部

京都○ ⑩西村治兵衛:戊申倶楽部

内貴甚三郎(大同倶楽部―元甲辰倶楽部―)、奥野市次郎(立憲政友会)、片山正中(大同倶楽部―元甲辰倶楽部―)

仙台○⑨⑩藤沢幾之輔:東北同志会→有楽組→政務調査所→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲国民党→無所属団→立憲同志会→憲政会→新党倶楽部→立憲民政党

高崎○ ⑩鈴木久五郎:戊申倶楽部→中央倶楽部

宮部襄(立憲政友会―元会派自由党、有志会、大同倶楽部―)

前橋-  磯村音介 :-(日本製糖重役―日糖事件で有罪となる―)

関口安太郎(猶興会)

川越○ ⑩綾部総兵衛:憲政本党→立憲国民党→無所属団→立憲同志会→憲政会

静岡○ ⑩秋山一裕 :-(日本製糖重役―日糖事件で有罪となる―)

松元君平(立憲政友会)

四日市- 九鬼紋七 :大隈伯後援会→無所属団→公友倶楽部→公正会

三輪猶作(大同俱楽部―甲辰倶楽部―)

大津× ⑨谷沢瀧蔵 :立憲革新党→実業同志倶楽部→山下倶楽部→帝国党→大同倶楽部

奈良× ⑨米田実  :無名倶楽部→同攻会→政交倶楽部→猶興会→立憲同志会→憲政会

岡山× ⑨大戸復三郎:甲辰倶楽部→大同倶楽部

松江× ⑨岡本金太郎:無名倶楽部→同攻会→政交倶楽部→猶興会

尾道○ ⑩橋本太吉 :又新会→同志会→亦楽会→亦政会→中正会→公正会→無所属団→正交倶楽部

高木龍蔵(大同倶楽部―元会派自由党―)

広島○⑨⑩早速整爾 :無名倶楽部→同攻会→政交倶楽部→猶興会→又新会→同志会→亦政会→中正会→憲政会

久留米○⑨⑩浅野陽吉:有志会→政交倶楽部→猶興会→又新会→中央倶楽部→立憲同志会→憲政会

博多×   奥村七郎 :無所属団→公友俱楽部→憲政会

平岡浩太郎(憲政本党)

当然の事だが、現職を見ると立憲政友会の議員が見当たらない。西村は実業家(京都商業会議所所属の呉服商であり、織物消費税廃止運動をしていた)、藤沢、谷沢、米田、大戸(実業家でもあった)、奥村(実業家でもあった)は弁護士、岡本は山陰新聞社長、鈴木は相場師として成功していた。大同倶楽部の議員もいるが、谷沢、大戸、服部小十郎、鈴木総兵衛ら同派の市部選出議員は、増税に否定的であったことから、大同俱楽部を脱すると見られていた(1908年2月15日付東京朝日新聞)。ただし実際には離脱していない。

この一覧を見る限り、商業会議所は第10回総選挙において、一定の成果があったようだ。だが既成の党派の所属が多いし、第9回総選挙後に衆議院議員であった者の落選もやや目立つ。落選者を見ると、大同倶楽部所属が2、猶興会が2名である。当時議員であった7名のうち、4名が猶興会所属であったこと、第10回総選挙で当選した橋本太吉が、中野らの戊申倶楽部ではなく、猶興会後継の又新会に参加したことからも、既成政党に属さない実業家と猶興会(新民党系、政界革新同志会)に当時、親和性があったことが分かる(上で挙げられた候補者の中に弁護士が多く、新聞記者がいた事からも、それを感じる)。一方で、当時議員でなかった者の選挙区のうち、1人区の市部の当時の現職議員の所属会派を見ると、立憲政友会1、憲政本党1、大同倶楽部3、猶興会1と、大同倶楽部が多い。そしてその3名中2名は、会派自由党の出身である。全体的に見ても、商工業者が少ないという特徴がある(これについて特にまとめてはいないが「中小会派の議員一覧」の第9回総選挙第10回総選挙参照。そこにない立憲政友会松元君平は新聞記者出身であり、実業家とは言えない。また猶興会の関口は牧場経営者であり、平岡の鉱山経営は、政治活動のためであったことが知られている)。そのような議員がいる市部選挙区に、実業家達は候補者を立てようとしたのだ。なお、磯村、秋山、鈴木(製糖会社の合併を推進し監査役に)と、候補者として挙げられた者の中に日本製糖の関係者が多いことも目を引く。中野は第10回衆議院議員選挙に、立憲改進党時代の選挙区があった香川県ではなく、実業家としての本拠地であった東京市で出馬することになった。その中野の、2月14日の商業会議所連合会における発言を確認しておきたい。長くなるが、重要な点が多く含まれているため、その大部分を引用し、内容について考えたい(薄田貞敬編『中野武營氏翁の七十年』215-218頁)。特に重要だと思われる部分に  を引いた。

色々、地方に於て從來の行掛り等が御ざいませうし、事情もある事で御ざいませうが、併し、從來は、政黨の爭の中でも、實業家がお供と言つたらよいか、提灯持ちと言つたらよいか知らぬが、先づ例へば、進歩黨とか政友會とかいふ處から、候補者が出て來る。何處かに一つ賛成するといふので、一に其政黨政派の爭ひに實業家が使はれて居るやうな事であつたのです。夫故に、政黨といふ事に就ては、何處の地方にも從來の行掛りがある。何の黨派であるとかいふ事になりまして、此の行掛りは多年の事でありますから、中々容易に之を動かす事が出來ないものである。併し今度は全く政黨などは放れて、一つ自身に此の實業團體といふものゝ上に候補者を揃へなければならぬ。詰り、衆議院議員の上に、是迄は無いのでありますが、是をお互に御相談の上、實業團とか何んとか全く今迄の政黨とは違ふ實業團體の地位を以て立つのであるといふ事を、旗色を明かにして政黨以外に立つてやる。而して衆議院に於ても、それ丈けの團體が一つの椅子を區別せられて立つといふ事にしたいものである。是が出來ぬ限り、何事を議論して見た處で到底容易に成しがたいのであります。何處の國にも、此の實業家といふものを放れて國家といふものがありやうがないので、何れも此の實業の事に重きを置いて居るのであります。又日本の法律等の沿革から申しましても、最初衆議院議員選擧法といふものは、凡て郡市一所になつて選擧區になつて居りまして、少しも市の實業者を代表するものを出すといふ事がなかつたのである。處が政府に於ても何うしても、此の商工業者といふものゝ代表者を出す事にせねば、眞に國政の上に於て差支へるといふ趣旨から、選擧法を改正しまして、市といふものを獨立さした。市が獨立した以上は、商工業の代表者が出て來る事と期待したのであります。

處が、市が獨立したにも拘らず、矢張り商工業代表者が出ずして、多くは政黨政社の人が出るといふ事は、此法律が改正になつた精神に副はぬのである。で、今度は一ツ商業會議所の議員の方々が、個人の資格を以て十分に働いて、純粹の商工業者といふものを一ツ選出、それで一團體の議席を獲得するやうにしたいと私は思ふ。現在の代議員でも商工業者の代表者の團體を造る事が出來るものとしたらば、之に投合する人は段々に出て來る事と思ひますが、未だそんな團體が形成されませぬから仕方なく、矢張り、或る政黨に附屬して居るので、今若し、各市から純商工業代表議員が選出されて、其の團體が形造られる事となつたならば、今日の政黨政派に名を残して居ります人も、方針を改めて加入するやうな事が出來ると思ふ。五十名乃至七十名の人が斷乎として一團體を造つて商工業者を代表する事となり、性行が潔白で人に黨せず、物に偏せず、如何なる政府でありましても善い事をすれば善いとし、惡しき事をすれば惡しといふやうな風に、其理解力の上から打算して決着をするといふ一ツの團體が存在する事となつたならば、其力は餘程強いものであらうと思ふ。今日の國情では、如何なる黨派も、一黨派で多數を占めるといふ事は出來ない。卽ち衆議院議員の過半數を一黨派で占める事は餘程難い事でありますから、僅かばかりの實業團議員とても、其の議員が凛乎として居るならば、其の黨の決定する事が、遂に議會に多數を占める事になる。そして從來の政黨の惡弊といふものを餘程革新する事が出來るだらうと思ひますので、今日の場合、此の實業家といふものが、神聖の地位に在つて、此秕政を改め、此議院の惡弊のある處を改良して行くといふ事を努めるが今日一般實業家の任務であらうと思ふ。それで、必ずしも商工業といふ事なく、實業といふ事を舞臺に立てゝ居ますれば、農なり工なり皆實業といふものに相違ないのですから、大體其旗色が鮮明になりましたならば、正しい處へよつて來る事にもなりませう。然うなると、其れが、國民及び政府の信賴する處となつて行くと思ひますから、それを實現するには、先づ商業會議所の議員になつて居るお方が最も奮發し、又自ら其衝に立つて厭はぬといふ事に決着して参らぬといけないので、私の希望は、是が一番將來の實業の發展を圖るの道であらうと思ふので御ざいます

最後の  部の「政府」とは、薩長閥を含むのかも知れない。当時は立憲政友会中心の内閣であったとは言え、同党所属の閣僚は総理大臣の他2名に過ぎなかったし、同党にだって、諸元老を擁する薩長閥の了解なしに政権を得ることは不可能だった。議院内閣制となった戦後であれば、政党、会派の力は議席数であり、票を投じる国民の信頼が最重要だ。加えて官界、財界の信頼がなければなかなかうまくいかない面もあるが、当時は元老、そして天皇も含む政界の上層部の信頼が、政権獲得のためにも、政権獲得を実現した大政党の連立相手、連携相手となるためにも、非常に重要であった。

中野は、既成政党に所属する実業家の議員は、党の決定に従わなければならず、地主層が中心の政党(と明言してはいないが)に付随するような存在であったという問題点を挙げている。そして独自の勢力を形成しなければ実業家のための政策を実現させられないという危機感を表している。当時の産業構造ではまだ、実業派、市部の代表が議会で少数派である事、政界の傍流である事は致し方なかったと言える。政策よりも政局に関する動きが多かった中で、内閣の政策に影響を及ぼす事は難しく、政局ではもっぱら利用されるだけで終わるという状況であった。当時すでに定着していた勢力図の中で、各勢力が実業家層を味方にしようとしていたという事はあっても、それは実業家の利害を代弁する政党が現れるというほどの事ではなかった。そのような中で、少ない実業家層の代弁者(であるべき者)がさらに各党派に散っているという難しい状態であった(「散っている」と言っても、もともと団結していたわけではないが)。中野の主張に対して、実業家による少数の政党を結成しても、政策を実現させられないという見方もあった。上で見た、候補者の選定に関する実業家達の意見の相違も、この問題による。結局彼らは、独自候補を多く擁立する事ができなかった。しかし、少なくともそれまでは、中野は、実業家中心の勢力を形成すれば、そこに他の勢力に属する実業家が加わり、50議席から70議席ほどの、つまり大同倶楽部(第19回総選挙前の議席が多かった時)くらいの勢力に成長できると考えていた。市部を独立した選挙区とした事の結果が表れていないと考えていた中野は、それをもっと活かせると思っていたのだ。確かに、少数派でも既成の党派に属さずに耐えて(≒純化路線)、そこである程度の規模になるか、少しは有利な立場になれば、他党派の実業派が集まって来ると、考える事もできなくはなかった。ただし、衆議院でキャスティングボートを握らずに有利な立場になる事は難しく、そのキャスティングボートも、立憲政友会が過半数を回復しつつあったから、第10回総選挙後にはもはや手の届かないものとなった(総選挙前には立憲政友会が過半数をもう少し多く下回り、中立実業派がキャスティングボートを握る事も、考えられない事ではなかったが)。税負担を軽減させる法案など、具体的な政策について、横断的に実業派、市部の議員が力を合わせる事はあり得たから、その次の段階として結集に持ち込む事も、作戦としてはあり得た。しかし中立でいたい者も少なくない議員達を、優勢になる前に恒常的に多く結集するというのは非常に難しかった。中野の主張は厳しい状況を踏まえた上で、希望を持たせて仲間(となり得る者達)を鼓舞するものであったのかも知れないが、楽観的すぎるようにも感じられる(「自民党が分裂する」など、政界再編に関する議論は現在でもしばしば楽観的なものとなるが)。

憲政本党が2分化されていた事は、猶興会や中野らの実業家にすれば、運動の前進に落とされた影であると同時に、自らが主導権を握ることのできる機会でもあった。注目すべきは中野が、時の政府に対して是々非々の立場を採り、かつキャスティングボートを握る勢力を志向していた事だ。単独ではさすがに多数派にはなれないのだから仕方がないのだが、結局実業派は、少なくともこの当時は中立派としてしか存在し得なかったのだ。かつて政界再編に明確な答えを出すことができず、山下倶楽部は分裂し(第5章、「中小会派の議員一覧」第5回総選挙参照)、甲辰倶楽部の多くが吏党系の帝国党と合流した(第9章(準)与党の不振(⑥⑦)~大同倶楽部の結成と吏党系の変化~等、「中小会派の議員一覧」第9回総選挙参照)。市部選出の無所属議員によって結成された有志会(郡部選出が非常に少ない、珍しい会派であった)も、吏党系、新民党、その他へと、散り散りになった(第9章補足~吏党系の拡大、大同倶楽部結成の経緯~、「中小会派の議員一覧」第9回総選挙参照)。そして繰り返しとなるが、第10回総選挙後間もなく、立憲政友会は過半数を上回ることになるから、キャスティングボートを掌握するという夢も、露と消えるのである。

当時、市部の選挙区では増税に反対の議員が多かったが、立憲政友会と大同倶楽部では、市部選出の所属議員を、それぞれの幹部が抑えていたという(1908年2月3日付東京朝日新聞)。経済が厳しい状況の中、利益誘導よりも、負担の軽減を求める有権者が市部に多かった事は確かだろう(これは今も、あるいは他国でも同様だろう)。しかしそのような所属議員、党員を抑えても、離党者を出さないで済む、あるいは数名レベルですむというのが優位政党だと言うこともできる。優位政党とは立憲政友会の事だが、不遇であっても、山県-桂系に連なる大同倶楽部では、この当時には離脱者が続出するような事はなくなっていた)。

最後に補足すると、政党に属さない実業家達が立ち上がった事について主に述べているが、それには近代化が進んだ市部の人々が立ち上がる事と重なる面があった(例えば本章野党の2択野党再編(⑩他)~地方で見られた非政友会大同団結~参照)。少しさかのぼり、市部の議員達の動きを見る。1906年1月12日付の読売新聞は、市街宅地租問題、他の市民の利害に関する問題について提携しようと奔走する議員が、政交倶楽部(同志研究会系。新民党)と大同倶楽部(吏党系)におり、別に団体を組織するには至らなくても、懇親会を開催し、将来提携する打ち合わせが行われるであろう事を報じている。2大政党以外の市部選出議員に以前よりもまとまりが見えた事は特筆すべきだ。同志研究会系の政交倶楽部→猶興会は左の極(新民党)、大同倶楽部は右の極(吏党系)であったが、後者の市部選出議員の大部分は、生粋の吏党系ではなく、その多くは、第10回総選挙で、中野武営が結成する戊申倶楽部に所属することとなる議員達にとって代わられたのである(立候補しなかった者も含めて)。

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