日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第5章 ~1898年3月、第5回総選挙~

第5章 ~1898年3月、第5回総選挙~

① 選挙結果

自由党98、進歩党94、国民協会22、鹿児島政友会7、

公同会6、新自由党2、東北同盟会2、無所属69、計300

自由、進歩両党が伸びた。分裂によって議席数が減っていた自由党は、進歩党を抜いて第1党に返り咲いたものの過半数には相変わらず届かなかった。この当時は進歩党と総選挙後に結成された同志倶楽部が野党で、自由党、国民協会、総選挙後に結成された山下倶楽部の、少なくとも一部が第2次伊藤内閣寄りであった。

 

② 伊藤の板垣入閣拒否

1898年3月、第2次伊藤内閣への板垣の入閣、つまり自由党の与党化は、井上馨大蔵大臣等が否定的であったために頓挫した(板垣は明治六年の政変で下野する前、井上の不正を暴いて失脚させようとした)。このため、板垣の入閣に動いていた伊東巳代治は、4月に農商務大臣を辞任した。国民協会は自由党を内閣の側につなぎ止めようとしたが、内閣に斬られたという面もある自由党内では、土佐派の縦断路線の停滞により、九州派等が模索した2大民党連携の動きが優った。自由党の野党化により、2大民党が共に過半数に届かないという、薩長閥に比較的有利な状況が消え、衆議院の圧倒的多数が反対派になった。

 

③ 山下倶楽部、同志倶楽部の結成

1898年5月、無所属の実業派や、高地価地域から選出された、無所属の地価修正派による山下倶楽部を結成された。公同会の半数(3名)も参加した。他に『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、第5回総選挙では公同会とされていない2名(国民協会を脱して公同会に参加していた平岡浩太郎、実業団体、日曜会を経て公同会に属していた陸奥系の山本隆太郎)も参加している。このうち平岡浩太郎は、野党的な会派を結成しようとして、中立の実業派と交渉していた(4月8日付の萬朝報によれば、田村順之助が独立倶楽部を結成して政府反対の同志を糾合しようと、中立、実業両派に働きかけた。それからおよそ1ヶ月後、5月7日付の同紙には、平岡浩太郎、降旗元太郎、野沢武之助、福嶋勝太郎、高梨哲四郎、前川槇造が会派の結成に動き、50名を超える模様となったこと、会派が野党と提携し、反政府の態度をとるだろうということが記されている)。山下倶楽部は、かつて政党に属していた議員の参加を拒否した。井上角五郎、竹内綱、当時政党員であったことはなかった児島惟謙(大津事件の際の大審院長、憲政党、憲政本党に参加)を加えようとする者があったが、拒まれた(1898年5月11日付東京朝日新聞)。同じく5月、鹿児島政友会、東北同盟会、新自由党、そして公同会の半数(3名)が合流し、同志倶楽部を結成した。同派は、2大民党の連携(の深化)を目指して動いた。

 

④ 衆議院議長選挙

第12回帝国議会(特別会、1898年5~6月)では、自由党土佐派の片岡健吉が衆議院議長に選出され、4年半ぶりに同党が、対外硬派が得ていた議長の座を奪還する結果となった。副議長には国民協会の元田肇が選出された。これは自由党と、同党と第2次伊藤内閣との連携を策していた(1898年4月24日付東京朝日新聞)国民協会の、協力の成果であった。第5回総選挙において、(おそらくは引き続き)鹿児島県内の全選挙区を独占した鹿児島政友会は、外交問題に関する内閣不信任案に賛成する勢力と組むという姿勢を採っていた(1898年5月14日付東京朝日新聞。主語は薩派)。そして、対外強硬姿勢を明確にするという条件付きで、進歩党を助けようとするなど、野党的な姿勢を採った(『鹿児島縣政黨史』287~288頁は「當時鹿兒島懸選出議員は、進歩黨を立場として薩派と稱せられ、他縣選出議員も其内に含まれて居つた」としている。この薩派が、衆議院議長選挙において、外交に関して内閣を不信任とする上奏案に賛成することを条件に進歩党と組もうとしたことは、1898年5月14日付の東京朝日新聞等で確認することができる)。進歩党はこれに応じた。自由投票となった山下倶楽部でも、井上馨-三井系の馬越恭平、三菱系の実業派が進歩党に同調した(1898年5月12日付萬朝報)。

 

⑤ 内閣弾劾上奏案の否決と保安条例廃止法律案の成立

1898年5月、進歩党は遼東半島還付後の状況について、三国干渉の大義と異なるロシア、ドイツの清への進出に対して、座視して対策を講じていないとして、内閣を弾劾する上奏案を提出した。しかし、自由党が賛成せず、否決された(進歩党、同志倶楽部、そして山下倶楽部の一部が賛成)。1898年6月、進歩党提出の保安条例廃止案が成立した。進歩党では総務委員を1名も出せなかった東北派に不満が広がった(1898年5月14日付東京朝日新聞)。

 

⑥ 選挙法改正案

伊藤は選挙制度を次のように改正しようとしていた。納税条件を地租5円、または所得税か営業税3円以上に下げる(被選挙権については廃止)。大選挙区単記制とし、都市部を別に独立した選挙区として、定数において優遇する。これには地租増徴実現のため、実業派議員を増やす狙いがあった。しかしこの改正案は、衆議院で伊藤の意に沿わない修正が加えられた(連記制とし、市部優遇の度合いを下げ、官吏と衆議院議員の兼職禁止を緩め、被選挙権を25歳以上、選挙権を20歳以上と、それぞれ5歳引き下げる)。そして法案は衆議院の解散により、不成立となった。

 

⑦ 地租増徴案の否決と衆議院の解散

1898年6月、自由、進歩両党が連携して、政府の地租増徴案を衆議院において否決した。民党は、予算案を審議する通常議会の前に、特別議会において審議することに反発し、自由党は、主にそれを反対の根拠とした。山下倶楽部は地価修正を先に行うべきだとして、地価修正建議案を提出した。これには自由党の約半数、山下倶楽部の多く、国民協会の大部分、無所属の半数、進歩党の4名、同志倶楽部の2名が賛成したものの、127対165で否決となった。自由党の積極財政志向、現実的な性質、同党に進歩党に比して高地価地域の議員が多かったことが、同党から多数の賛成者がでた要因であった。自由党の関東、土佐両派の要人が、実業家層の支持を得ることに熱心であったという背景もある。第3次伊藤内閣が地価修正の先議には否定的であったことから、山下倶楽部は地租増徴案に否定的な姿勢をとった。地租増徴賛成は国民協会他ごく少数となり、法案は27対247で否決となった。このため、伊藤総理は衆議院を解散した。しかしこの時は、自由、進歩両党に勢いがあり、非常に早期の解散にも、両党はほとんど動揺しなかった。解散は2大民党の反政府感情を強め、両党間の対立感情を小さくした。自由党の地価修正建議案賛成者には離党の動きがあったが、このような状況下、それも沈静化した。

 

⑧ 憲政党の結成

1898年6月、第1党の自由党、第2党の進歩党、同志倶楽部が合流して、巨大政党、憲政党を結成した。山下倶楽部からも民党寄りの議員が参加した。山下倶楽部の平岡浩太郎はむしろ、同志倶楽部の河野広中と共に、合流を促していた。創立委員は自由党11、進歩党11、同志倶楽部2、山下倶楽部1、無所属1名となった。調整がつかず、党首は置かれなかった。党運営を担う総務委員には、自由党系の林有造(土佐派)、松田正久(九州派)、進歩党系の尾崎行雄(元立憲改進党)、大東義徹(元立憲革新党)が就いた。民党としての政策を引き継いだ憲政党は、綱領に均衡財政と共に、運輸、交通機関の整備の促成完備を謳い、進歩党系と自由党系の調整を回避し、主張を併記するに留めた。

 

⑨ 伊藤新党結成の失敗と内閣総辞職

伊藤総理は再度、政府党の結成を提案していた。それは国民協会、地価修正派、そして地租増徴を求める実業派等をまとめようというもので、自由党内の地価修正派の参加にも期待していたと考えられる。閣僚が一致して新党を結成することも考えられていた。薩長閥政府側要人では金子堅太郎農商務大臣、黒田枢密院議長が賛意を示し、山県有朋、芳川顕正内務大臣、桂太郎陸軍大臣らが反対した。山県は、政府党の組織はやむを得なくとも、政党内閣主義の外に立つべきだとし、その領袖に政府部外の人物がなるか、領袖となる人物が下野をして、外から政府を支援すべきだという考えを示した。山県は、伊藤新党中心の内閣が、政党内閣全般に道を開くことを懸念していた。山県が松方に送った1898年6月18日付の書簡(『松方正義関係文書』第9巻171~172頁)に、山県が井上に述べたことが記されている。それは、自由、進歩両党が共に政府を攻撃する状況下、政党を結成して当たらなければ明治以来の国是を貫けないため、勤王党の組織が急務であるものの、民党との差異、政党内閣の是非が問題であり、政党は旗幟鮮明でないと党員が強固にならないが、自由、進歩両党と政府党の差異が、政党内閣の是非しかないという内容であった。山県系の桂太郎陸軍大臣は、再三解散する覚悟を持つべきだとした。増税と事業繰り延べによる健全財政を志向していた井上馨大蔵大臣は、地価修正派、国民協会、実業家(増税による財政再建を唱えて伊藤の新党構想を支持していた渋沢、大倉、山下倶楽部の片岡直温、馬越恭平―1898年6月16日付萬朝報―)に新党への参加を働きかけた。しかしすでに解党を検討していた国民協会は、山県が総理大臣、閣僚が下野せずに政党を結成することを認めなかったことから、まとまって参加することは困難であった。そして、当時日本銀行総裁であった岩崎弥之助(元来立憲改進党と近く、伊藤と改進党系、自由党系の提携を志向していた)の反対が実業派を、選挙区の有権者の不満が地価修正派を躊躇させた。実業家には、自ら財政党を組織して、朝野両党のうち己に利益のある党派を助けようという意見があった(1898年6月18日付東京朝日新聞)。このため、新党結成を断念した伊藤は、辞任を決めた(伊藤が新党を結成しても地租増徴案の成立につながるのか、難しい状況であったことから、井上馨は民党に地租増徴という課題を背負わせる、つまり政権を渡すという考えも持っていた-坂野潤治『明治憲法体制の確立』166頁-)。国民協会では、伊藤の新党構想が浮上する前から、同党を核とする新党の結成が考えられており(佐々木隆「明治三十一年の伊藤新党構想」36~37頁)、山県も、政党内閣を目指すのではない、薩長閥政府支持政党は容認していたことから、その構想は消えなかった。

 

⑩ 政党内閣の誕生

伊藤は自らの後継に、初めて、議員でこそない(華族の当主なので衆議院議員にはなれない)ものの政党政治家である大隈、板垣を奏薦した(外交での当面の危機が去ったことも背景にあった―伊藤之雄『立憲国家の確立と伊藤博文』244頁―)。薩長閥の実力者の中で、これに反対する者はあっても、自ら、野党が圧倒的多数を占める衆議院を操縦する自信のある者はいなかった。伊藤の挑発を受けた山県も、総理大臣となることには消極的であった。伊藤が2名を奏薦したのは、どちらが総理大臣となるかを、憲政党内の情勢に任せたことによる。板垣は、自身を儀式典礼に通じていないとし、進歩党の指導者であった大隈が、総理大臣に就くこととなった。こうして1898年6月、第1次大隈重信内閣が成立した(隈板内閣と呼ばれる)。自由党系の指導者板垣退助は、内務大臣に就いた。閣僚は以下の通りであり、各省次官の多くなどにも、憲政党員が就いた。軍部大臣には、軍部、そして軍部と近い薩長閥の協力を得る必要性から、陸軍大臣に桂太郎、海軍大臣に西郷従道が就いた。桂と西郷は、軍縮方針を採らないことを入閣の条件とした。このため、地租増徴の回避は困難なものとなった。閣僚には数えられないが、内閣書記官長には武富時敏(進歩党系―元同志倶楽部、立憲革新党―)、内閣法制局長官には神鞭知常(進歩党系―元有楽組―)が就いた。憲政党の総務委員が全て入閣したため、片岡健吉(自由党系―土佐派―)、江原素六(自由党系―元大同倶楽部―)、楠本正隆(進歩党系―元立憲革新党―)、犬養毅(進歩党系―元立憲改進党、中国進歩党―)が総務委員となった。

総理大臣兼外務大臣  大隈重信 進歩党系(元立憲改進党)

内務大臣  板垣退助 自由党系(土佐派)

大蔵大臣  松田正久 自由党系(九州派)     (落選中)

陸軍大臣  桂太郎  長州閥

海軍大臣  西郷従道 薩摩閥

司法大臣  大東義徹 進歩党系(元立憲革新党)  衆議院議員

文部大臣  尾崎行雄 進歩党系(元立憲改進党)  衆議院議員

農商務大臣 大石正巳 進歩党系(※)   (第6回総選挙当選)

逓信大臣  林有造  自由党系(土佐派)     衆議院議員

※大石はかつて板垣洋行に反対して自由党を離党し、進歩党の結成に参加

憲政党員が就いた他の主なポスト(省略したが、以下の省の参事官や局長にも党員が就いた)

内閣書記官長 武富時敏  進歩党系(元立憲革新党)          衆議院議員

法制局長官  神鞭知常  進歩党系(元旧大日本協会・政務調査所派)  衆議院議員

外務次官   鳩山和夫  進歩党系(元立憲革新党)          衆議院議員

内務次官   鈴木充美  自由党系                 元衆議院議員

司法次官   山田喜之助 進歩党系                  衆議院議員

文部次官   柏田盛文  同志倶楽部系(鹿児島政友会)        衆議院議員

農商務次官  柴四朗   進歩党系(元立憲革新党)          衆議院議員

逓信次官   箕浦勝人  進歩党系(元立憲改進党)          衆議院議員

北海道庁長官 杉田定一  自由党系(元愛国公党)           衆議院議員

東京府知事  肥塚龍   進歩党系(元立憲改進党)          衆議院議員

大阪府知事  菊池侃二  自由党系(元大同倶楽部)         元衆議院議員

栃木県知事  萩野左門  進歩党系(元旧大日本協会・政務調査所派)  衆議院議員

群馬県知事  草刈親明  自由党系                 元衆議院議員

静岡県知事  加藤平四郎 自由党系(元愛国公党)           衆議院議員

長野県知事  園山勇   自由党系                  衆議院議員

富山県知事  金尾稜嚴  進歩党系(独立倶楽部出身―第1回総選挙後) 衆議院議員

石川県知事  志波三九郎 自由党系                  衆議院議員

香川県知事  小野隆助  山下倶楽部系(国民協会出身)        衆議院議員

高知県知事  谷川尚忠  自由党系(元愛国公党)          元衆議院議員

 

 

補足~改進党系の東北地方選出議員の吸収~

第4回総選挙後、東北地方の選挙区から選出されていた立憲改進党の所属議員は、49名中1名に過ぎなかった。これに対して自由党は、107名中13名と、比率がずっと高かった(第4回総選挙の結果から、無所属議員の一部が大手倶楽部を結成した以外に変動がなかったと見られる第7回帝国議会会期終了日-1894年10月21日-の時点)。第3回総選挙の前に東北地方選出議員8名を含む離党者達が同志倶楽部を結成した影響で、同党の東北地方選出議員の数は一時期減っていた(大まかに述べるにとどめるが、約3分の2が離党したことになる)。そして、所属議員がほとんどいなかった宮城県、岩手県、山形県で、同党は議席を増やしていた。同志倶楽部の後継であった立憲革新党、そのために所属議員39名中12名(上と同じ時点)までもが東北地方選出の議員達であった立憲革新党の多くは、立憲改進党と合流した。結成時の進歩党の東北地方選出議員13名中11名は、立憲革新党の出身であった(実業団体を経て進歩党の結成に参加した佐藤里治を含めて11名)。さらに、自由党からは福島県内から選出された全所属議員が離党し、東北同盟会を結成した。そして第5回総選挙後、自由党の東北地方選出議員は96名中わずか1名であったのに対し、進歩党は、91名中24名という高水準となっていた。

 

補足~政党~

国民党:国民党とは、1897年12月に、中江兆民らが結成したものであるが、衆議院に議席はなかった。→詳細

 

 

図⑤-A(③④):第5回総選挙後の勢力分野

図⑤-A(③④):第5回総選挙後の勢力分野

 

 

第3極実業派の動き(①③)~山下倶楽部の2つの役割~

 

(準)与党の不振(③)~国権派~:改進党系等との共闘を重視し、国民協会を離党していた平岡浩太郎(前島省三『明治中末期の官僚政治』2頁)は、自身が属していた玄洋社の指導者頭山満が、国民協会の佐々友房と行動を共にしていたことに反発していた(『玄洋社社史』507頁)。平岡は実業も営んでいたから、そのことを、一定規模の、吏党系とも親薩摩閥とも異なる、つまり薩長閥の下部組織という面を持たない新勢力の形勢に利用したのだろう。中立派、実業派の形成だけにこだわっていたのなら、2大民党の合流に動くはずはない。このことには、自らの支持派の大きなウエイトを、自由民運動の流れを汲む、国権派に依存していた薩長閥政府の弱さも現れている。吏党系において国権派の熊本国権党(吏党系残留派)の力が強まれば、同じ九州地方の国権派(平岡らが親薩摩閥に移った福岡の玄洋社)に、反発する者が現れても不思議ではない。薩長閥は、2大民党を共に協力者にできないのと同じように、2大国権派の双方を協力者にすることも、実は容易ではなかったのである。

 

(準)与党の不振(③)~公同会の分裂~:公同会の議員が、山下倶楽部、同志倶楽部という、立場、政策が大きく異なる2派に分かれて参加したことは、解散に至った公同会に、統一性がなかったことを示している。公同会系の議員のうち、以前自由党に属していた議員(1人は新自由党に属したことはない)、国民倶楽部に属していた議員、議員倶楽部に属していた議員が、山下倶楽部と同志倶楽部の双方に見られる。このことには、公同会どころか、それに参加した諸会派それぞれにすら、統一性が欠けていたことが表れている。

 

第3極(③④⑤⑥⑦⑧特に③⑦):政界の対立構造は、2大民党の対立を経て、再び薩長閥対民党となったかのように見えた。しかし1列の関係が形成され、つまり自由党系(場合によっては改進党系)が民党連合を崩して、薩長閥と再び提携する可能性が以前のそれより顕在化していた状況下、2大民党の対決は、以前にも増して権力闘争の面を強くした。その中で第3極には、山県系の国民協会、実業派や地価修正派による山下倶楽部、2大民党を合流させようとする同志倶楽部が存在した。相変わらず分立していたものの、薩長閥と2大民党の対立については、国民協会は薩長閥、同志倶楽部は民党の側であった。残る山下倶楽部は中立といえたが、薩長閥政府寄りの議員も、2大民党の影響下にあった議員も属しており(1898年5月14日付東京朝日新聞。降旗徳弥回顧録『井戸塀二代:降旗徳弥回想録』66-67頁に降旗元太郎―山下倶楽部に所属―が地元の実業団体の推薦、鳩山和夫―進歩党―の尽力で立候補したとある)、その姿勢は不明瞭であった。ただし山下倶楽部が、地価修正を地租増徴に先駆けて決断すべきだとしたことは、薩長閥政府と民党の双方を妥協させる、第3極(の中立勢力)の役割を図らずも果たそうとするものであった。

 

実業派の動き(③⑦)~限界と可能性~

 

(準)与党の不振連結器(③④)~地域政党化~

 

1列の関係(⑤):自由党が上奏案に反対したことにも、1列の関係を見て取ることができる。同様に第3次伊藤内閣への入閣を果たせなかった2大民党であったが、自由党は進歩党と違って、長州閥伊藤系との関係を決定的に悪くすることがないように振る舞ったのである。

 

1列の関係(⑦)~2大民党の変化~

 

(準)与党の不振実業派の動き(⑨)~伊藤の2度目の新党構想~

 

(準)与党の不振(⑦⑨)~国民協会の孤立化~

 

2大政党の合流野党再編(⑧)~無理な合流~

 

1列の関係(②⑧):第3次伊藤内閣と進歩党との交渉が早々と打ち切られたのに対し、同内閣と自由党との交渉は総選挙後も行われた。伊藤系が進歩党よりも自由党と近かったのは間違いない。2大民党の合流については、進歩党の方が自由党よりも積極的であった(伊藤之雄『立憲国家の確立と大隈重信』241頁)。

以上を合わせると、1列の関係において、薩長閥-自由党系-改進党系という列の中央に位置する自由党系が、(薩長閥が前、あるいはトップではあっても)政界全体のキャスティングボートを握りつつあったということが分かる。これが完全なものとなるのは、山県系が自由党系と組むようになってからだと言える。薩摩閥が沈み、薩長閥=自由党系の協力を取り付けようとする勢力、改進党系=自由党との野党共闘を目指す勢力という面が大きくなるからである(薩摩閥も第1次山本内閣で、改進党系ではなく、自由党系―立憲政友会―と組んだ―第11章で見る―)。

 

新与党の分裂(⑨⑩)~万年野党の政権獲得と増税、官僚~

 

政界縦断(⑩):薩長閥政府が、民党が多数派を占めていた衆議院において苦労したように、憲政党内閣も、薩長閥支持派や政党に批判的な勢力が多数派であった貴族院対策に苦労する可能性が高かった。このような制度上の要素も、薩長閥系と民党系による2大政党制をほぼ不可能にし、政界縦断を促したのだといえる。

 

 

 

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