日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・新民党・実業派の動き(①)~新民党の広がり~

第3極・新民党・実業派の動き(①)~新民党の広がり~

猶興会も議席を減らしたが、政党ではなく、大同倶楽部のように政党(帝国党、その中心になっていた熊本国権党)を核にして結成されたわけではない事を考えると、健闘したと言える。中立派と同じく、支持基盤が実業家に限られていたわけでは全くなかった左の極(筆者が新民党に分類する同志研究会系)であるが、市部選出、実業家(に近い、理解のある)の議員も当然いた。立憲政友会、大同倶楽部に属さない実業家達は、低負担を求めて共闘する事ができた。市部の利害に関して、協力する事が比較的容易であった。純粋な商工業党の結成や、新民党の大政党化は難しくても、地主層、郡部を主な支持基盤とする2大政党とは異なる、地主層以外の有権者、市部の有権者を主な支持基盤とする勢力形勢の機は、ある程度熟していたと言える。立憲政友会が分裂して、新民党(同志研究会系)や無所属の議員が比較的多くなっていた事、同じくその分裂によって、衆議院の過半数を(安定的に)上回るほどの政党が、たとえ一時的にであっても存在しなくなっていた事が、その前進をやや容易にしていた。確かに当時の日本の新民党、つまり最も左の極は自由主義であった。しかし同時に、当時まだ議席を持っていなかった社会(民主)主義勢力と最も親和性のある、帝国議会に議席を持つ急進派でもあった(例えば島田三郎は安倍磯雄と交流があった)。この点にはイギリスの自由党等に近い面もある(イギリスの自由党は当時、政権をしばしば担う、2大政党の1つであったが)。現に彼らは、多くが普通選挙の実現と、一般の国民に浸透する事、そのためにも国民を啓蒙する事を目指しており、それはもちろん、労働者階級を排除するものではなかった。

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