1.政権交代論

補足~吏党系の拡大、大同倶楽部結成の経緯~

 

1905年1月2日付の萬朝報は、会派自由党、帝国党、甲辰倶楽部、中立派を合して、少なくとも56人の代議士を得て、追々拡張しようと企てる者があるが、ものにならない模様だとしている。第1次桂内閣支持派の合流は、少なくとも一部で模索されていたものの、なかなか前進しなかった。2月15日付の読売新聞は、衆議院における、同攻会を除く少数党各派が合同しようとしているが、甲辰倶楽部には賛否があるとしている。最初は帝国党の佐々友房、会派自由党の林有造、山本幸彦、甲辰倶楽部の石塚重平、無所属の板東勘五郎らが画策し、佐々、林は、表面に立つのが得策でないために黒幕となったのだという。甲辰倶楽部の所属とは言っても、石塚と板東は立憲政友会の出身であった(特に石塚は自由党の時代から衆議院議員であった)。

1月6日付の萬朝報は、田口、島田らの中立団体が少数孤立の弊を認めるも、一大政党を組織することには思い及ばぬため、自己に適する既成政党に入党することで、一致したと報じている。同派は実際に、大同倶楽部参加者と政交倶楽部参加者に二分された。左の極と右の極に裂かれたのである。当時、都市部の利害を代表するためにまとまっているということが、あまり重視されなかったということだ(市部と郡部に分かれた初めての総選挙である第7回総選挙から、有志会の結成まで2年以上かかっており、より多くの市部選出議員が恒常的に組むということも、なかった)。市街宅地租増徴が済んだためだと考えられる。その際に、少数派の悲哀を味わったということかも、あるのかも知れない。

1905年3月4日付の萬朝報は、中立団体に二種の暗流があるとした。一つは、大政党の圧迫を利用して中立を糾合し、一種の政府党を結成しようとする佐々ら。もう一つは、一団となって、立憲政友会と憲政本党の離反に乗じて、その一方と組もうとしており、土佐派にいるのだとした。この間、前述したように、2大政党等による第1次桂内閣側の勢力の排除と、大政党を重視せざるを得ない第1次桂内閣を見て、吏党系と他の第1次桂内閣寄りの勢力は、危機感を強めていた(逆に言えば中立派を吏党系に合流させる、つまり政党化させるチャンスであった)。3月1日、帝国党、会派自由党、甲辰倶楽部、有志会が中央通信所を設置した(1905年3月3日付東京朝日新聞)。3月5日付の萬朝報には、中立団体は立憲政友会と憲政本党の提携を破壊して、天下三分の実を挙げようとしたが、前途は未だ明らかではなく、小党連合を策することは、かえって両党連携を強固にするとの理由から、密かに小党連合を持続させ、重要問題についてなるべく一致の態度を採るべきだと、内決したことが記されている。異分子が多く、実際の同志は5、60名に過ぎないともしている。

1904年12月5日付の東京朝日新聞は、帝国党が会派自由党、甲辰倶楽部、有志団体(有志会のことだろう)、同攻会による中立倶楽部を組織する計画だと報じている。記事は、立憲政友会と憲政本党の楔子(くさび)だと自認する同攻会は計画を喜ばないものの、約100名の、大成会のように政見を各自の任意とし、役員については一致して両党の専断に抵抗する団体は、出来るらしいとしている。1905年3月2日、8日の会派自由党の分裂は、その兆候であった。帝国党等との合流に賛成であった、関東派や北陸派(土佐派以外の多く)の、丹尾頼馬、牧野逸馬、藻寄鉄五郎、田中喜太郎、浅野順平、中谷宇平、田村順之助、持田岩佐、関信之介、駒林広運、松元剛吉、松本大吉、嶺山時善が会派自由党を離党したのだ。4日付の東京朝日新聞は、会派自由党内に少数党連合を喜ばない者があると報じたが、離脱者は全員合流に参加しているから、彼らが、合流に否定的な議員がいるために積極的に動けなかった会派自由党に見切りをつけたのだと考えられる(1905年3月6日付東京朝日新聞は、関東北陸派が小党派合同問題にむしろ積極的で、賛成はしたものの本来は反対の林が、病気を理由に面会を避けたことで離脱を決断したとしている)。3月5日付の読売新聞は、対立が第21回帝国議会開会前からあったことと共に、離党者が小党合同に積極的であったことを伝えている。

帝国党と甲辰倶楽部は、衆議院では2大政党の連携に対抗し得ない少数派であった。そしてそれらと2大政党との対立は、2大政党と第1次桂内閣との対立と、一体的なものであった。そのように見た場合、2大政党は衆議院において拒否権を持つものの、必ずしも強者であったとは言えなかった(現に野党であった)。

なお、1905年10月3日付の読売新聞は、小山田信蔵(水戸市選出)の名で新団体が組織され、藻寄鉄五郎(石川県郡部選出)、栗原宣太郎(神奈川県郡部選出)も加わっていると報じている。小山田は有志会の出身、藻寄、栗原は立憲政友会の離党者で、藻寄は政友倶楽部を経て、栗原は交友倶楽部を経て、共に会派自由党に属していた(会派自由党は3月18日に解散していたが、藻寄は同月2日に離脱していた。栗原は第9回総選挙に無所属として当選して甲辰倶楽部の結成に参加したが、1904年12月17日に離脱)。その後、3名とも大同倶楽部の結成に参加したが、藻寄は1906年4月3日に、小山田と栗原は同年12月25日に離脱するも復帰、小山田と栗原は1907年3月2日に立憲政友会に移り、藻寄も同年7月28日に、同党に加わっている。しかし藻寄はこの間、武藤金治(群馬県郡部選出)と会派の移動を共にしているし、小山田と栗原も尾見浜五郎(茨城県郡部選出)、高梨哲四郎(東京市選出。かつて山下倶楽部、憲政党、憲政本党、議員同志倶楽部、中立倶楽部、中正倶楽部、甲辰倶楽部に所属)、矢島中(宇都宮市出身。立憲政友会、会派自由党出身―後述する河上英と同じく1904年3月19日に離脱―、有志会、大同倶楽部に参加)と会派の移動が一致しており、3者が特に行動を共にした様子はない。しかし上に上がった議員達は藻寄を除いて関東地方の選挙区から選出されており、何らかの関連性があった可能性もある。

山県-桂系を中心とする内閣の終焉は、当然ながら、吏党系、第1次桂内閣寄りの勢力には不利になる(もともと優遇されていたわけではないとしても)。山県-桂系の支持派となって久しく、容易に立場を変えられない吏党系は、特にそうであった。政界の中心的な勢力であった(中央ではない-第6章1列の関係(⑦⑧⑪⑫⑬)参照-)山県-桂系の影響力が低下するかは不透明であった。しかしそれでも、時代の節目に備える必要はあったそれらの勢力は、ついに合流を決めた。そして12月23日、帝国党全18名(4月4日に1名が死去していた)、甲辰倶楽部のほぼ全員(註1)、3月18日に解散していた旧会派自由党系の一部(分裂前19名-20名であったが1名死去-中の13名-さらに松本大吉も1906年4月5日に加盟。この14名の内訳は、会派自由党離脱者全13名と、残留した高木龍蔵)、有志会17名中の7名(註2)が、1905年12月23日に、大同倶楽部を結成した。甲辰倶楽部は12月25日に解散となった。旧会派自由党系は大雑把に言えば、高知県内選出議員全3名(山本幸彦、中沢楠弥太、楠目玄)が、大同倶楽部に参加せずに立憲政友会に復党し、関東地方選出の議員等、それ以外が大同俱楽部の結成に参加している(土佐派でも千葉県郡部選出の林有造―本章政界縦断・優位政党の分裂(①)~高知県の異変~参照―は無所属を貫き、小田貫一(広島県郡部選出)は大同倶楽部に参加せず、立憲政友会に復党)。この過程を報じた1905年10月4日付の東京朝日新聞は、「高知派の山本幸彦、中沢楠弥太、楠目玄の三氏は地方の状況より已むなく同攻會と同一の態度を持するに至るべく」としているが、実際には彼らは早期(高知県内選出の3名は1906年1月20日、小田貫一は比較的遅く1907年1月18日)に立憲政友会に復党している。なお、1906年1月12日付の萬朝報によれば、山本幸彦、中沢楠弥太、楠目玄の衆議院議員3名と、前衆議院議員の西山志澄らが協議の結果、立憲政友会に復党することを決め、立憲政友会が、土佐派と共に同党を離党した衆議院議員達に向かって復党を勧告し、彼らも復党するという条件で、同党と交渉した。しかし同党は、復党を希望しない者も、同党が復党を望まない者もあるとして、拒んだ。

1905年12月6日付の読売新聞は、「帝國黨外三派聯合の新政黨」がすでに80名余りに達し、確認のとれていない地方在住の衆議院議員十数名、2大政党からも参加者があり、「優に百餘名の同志を糾合すること容易なりと云ふ」と伝えているが、結成時の衆議院議員の数は86名であり、さらに、12月26日付の萬朝報によれば、板東勘五郎(元実業団体―第4回総選挙後―、日曜会、山下倶楽部、日吉倶楽部、立憲政友会)、岩本晴之(元壬寅会、立憲政友会)、大久保弁太郎(自由党―会派自由党ではなく、第5回総選挙後までの本流の方―。以上徳島県内選出―岩本が徳島市選出―)、鵜飼退蔵が大同倶楽部加盟を承諾していないとして、これが取り消される事態が起こった(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部160頁では12月25日に脱していることとされ、やはり徳島県郡部選出の橋本久太郎-元立憲改進党~憲政本党、立憲政友会→大同倶楽部-、川真田徳三郎-元立憲改進党、溜池倶楽部、立憲政友会-も同じく同日に無所属になっていることが記されている。鵜飼は他に会派に属したことはない。徳島市選出の岩本は)。記事は高木龍蔵についても同様で、高木が政交倶楽部に加盟するらしいことを報じている。

このようなこともあり、90議席台であった憲政本党を、上回る可能性は小さかったが、同党がそれを恐れるだけの状況ではあったと考えられる。ただし、仮に大同倶楽部が第2伊藤として結成されても、それで安泰だと言えたわけではない。政党に属すことに消極的な議員も少なくない、組織力に乏しい勢力の寄せ集めであったからだ。しかし、憲政本党の一部(対外強硬派→改革派ということになるだろう)が大同倶楽部に参加するということにでもなっていれば、もちろん話は別であり、それが実現するのが、立憲同志会だと、言うこともできる。

井上角五郎は倶楽部懇親会において、政友会はげんこつ、進歩党は演説遣い、自党は実業を基礎にする団体だから、前途洋洋だとした(1905年12月30日付萬朝報)。大同倶楽部は2月に、農業、商業、工業の具体的な産業の奨励等を謳った、国本培養策を打ち出した(1906年2月22日付読売新聞。井上の所属会派の変遷は、立憲自由党→協同倶楽部→中央交渉部→井角組→実業団体(第4回総選挙後)→憲政党(分裂後)→立憲政友会→中立倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会→新政倶楽部→政友本党)。

結成時の大同倶楽部所属議員の後の所属会派を見ると、帝国党出身者18名のうち、6名が立憲同志会の系譜に、1名が立憲政友会の系譜に参加し、11名が大同倶楽部か後継の中央倶楽部以外には、少なくとも衆議院議員としては属していない。同様に会派自由党出身者14名を見ると、それぞれ1名、7名、5名であり、残る1名(松元剛吉)は維新会、新政会に参加している。有志会出身者7名はそれぞれ4、1、2名、甲辰倶楽部出身者29名は5(うち1名―山根正次―が維新会、新政会へ)、6(うち1名―本出保太郎―が維新会へ)、18名である。それ以外の18名は、1、8、7名であり、残る2名のうち1名が維新会の、1名が同志研究会の系譜(政交倶楽部、猶興会)に参加している。このことから、衆議院議員でなくなった者は除くとして、帝国党は多くが吏党系の本流と言える、中央倶楽部結成、立憲同志会結成への参加、と歩んでいるが、甲辰倶楽部はその傾向があまり強くはなく、会派自由党、有志会、それ以外(それまで会派に属したことのない議員が多い)は、多くが立憲政友会に入復党していることが分かる(『補論』⑱参照)。

註1:甲辰倶楽部は結成時33名であったが、6名の加盟者があり、第20回帝国議会の会期終了日(1904年3月29日)には39名であった。このうち13名が離脱し、大同倶楽部結成直前、甲辰倶楽部は26名であった。そのうちの、佐竹作太郎(元壬寅会、中正倶楽部)を除く25名が、1905年12月23日に大同倶楽部の結成に参加した。佐竹作太郎1名となった甲辰倶楽部は、大同倶楽部結成の2日後に正式に解散した(佐竹は1906年12月23日に立憲政友会へ)。39名であった時の議員達を見ても、大同倶楽部への参加、不参加に特別な傾向はない。強いて言えば、山梨県内選出議員全3名(甲府市選出の佐竹は後に立憲政友会へ、郡部選出の根津嘉一郎と天野董平は憲政本党へ)、三重県郡部選出の全3名(1名は同志研究会の系譜を経て立憲国民党へ、2名は立憲政友会へ)が参加していない(四日市市選出の三輪猶作は参加)。なお、甲辰倶楽部離脱者の多くは、後に立憲政友会に加わっている(甲辰倶楽部を離脱して大同倶楽部に加わった3名のうちの2名も、立憲政友会に加わっているが、そもそも後に切り崩され、大同倶楽部から立憲政友会に移る議員が少なくない―『補論』⑱参照-)。

註2:17名で結成された有志会は、1904年12月3日、小林仲次、高橋勝七、岩本晴之の3名が加わって20議席になったが、同年12月14日に白勢春三が当選無効となり、28日に福地源一郎が離脱(その後大同倶楽部の結成に参加)、1905年4月13日に田口卯吉が死去し、17議席に戻っていた。この17名のうち、7名が大同倶楽部の結成に参加、7名が旧同攻会系(同派は1905年2月28日に解散)と、政交倶楽部を結成した。沢田佐助は、1905年12月25日に立憲政友会に参加した。金子元三郎、辻寛、永見寛二は無所属として過ごしていたが、永見は1906年12月23日に、辻は1907年1月18日に立憲政友会へ、金子は後に大隈伯後援会、無所属団、公友倶楽部、憲政会に参加している。