日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
3-18. 薩長閥の不統一と吏党の分裂

3-18. 薩長閥の不統一と吏党の分裂

薩長閥に重要視されなかったこと、薩長閥の不統一によって吏党の系譜は度々不振に陥り、また不振を脱することができなかった。吏党系の度重なる分裂を整理しつつ、議席数の変動という面から確認していきたい。

衆議院の政党、会派の力の源泉は議席数である。もちろん、議席が少なくてもキャスティングボートを握って影響力を発揮することはできる。しかしキャスティングボートは状況次第で失われるものである。一時期を除けば、戦前は2大政党が交互に政権を担っていたわけではなく、何より政党内閣が常態化していたわけではなかった。そのような戦前の日本においては、立場が曖昧な党派、容易に変化する党派もあったから、過半数を上回る政党が存在していない時期であっても、1つの党派がキャスティングボートを単独で明確に握っていることは少なく、その所在が不明瞭である場合もあった。

どのような議員達が握っているのか不明瞭なキャスティングボートの、どこに触れているのかはっきりしない状況下こそ、触れること、触れている面積が増えることは重要だ。だからやはり、衆議院の政党、会派の力の源泉は議席数であった。そして衆議院における勢力が議席を減らすのは、選挙の結果か分裂によってである。

ここで吏党系としている吏党直系(大成会、中央交渉部、国民協会、帝国党、大同倶楽部、中央倶楽部)の総選挙における獲得議席は、表補-Fの通りである(得票率も重要ではあるが、あくまでも衆議院における勢力の大きさに注目していること、後述する通り、分裂による議席数の増減と比較する必要があることから、議席数だけを見ることとする。議席占有率を用いることも、煩雑となるため避ける)。

 

表補-F 吏党系の議席数

・中央交は中央交渉部、大同倶は大同倶楽部、中央倶は中央倶楽部。

・総議席数は当初300、第7回総選挙から376、第9回総選挙から379、第11回総選挙以後は381。

・選挙前議席数は解散当日、または選挙直前の帝国議会の会期終了日の議席数。

・第1、2回総選挙では吏党直系の政党が存在せず、獲得議席数には大成会、中央交渉部の結成時の議席数を記した。

総選挙(①…第1回) 選挙前議席 獲得議席数 選挙後の再編
①(1890年7月) 63(大成会) 大成会離脱者が巴倶楽部、独立倶楽部を結成
②(1892年2月) 46(大成会) 84(中央交) 中央交渉部が、国民協会、実業団体等に分裂
③(1894年3月) 69(国民協会) 32(国民協会) 国民協会から約5名が脱し中立会派、無所属に
④(1894年9月) 26(国民協会) 32(国民協会) 国民協会離党者が親薩摩閥の会派へ
⑤(1898年3月) 23(国民協会) 22(国民協会)
⑥(1898年8月) 26(国民協会) 20(国民協会) 国民協会が帝国党を結成、双方から離党者が出て立憲政友会へ
⑦(1902年8月) 13(帝国党) 17(帝国党)
⑧(1903年3月) 17(帝国党) 17(帝国党)
⑨(1904年3月) 18(帝国党) 17(帝国党) 甲辰倶楽部、旧自由党系と合流し大同倶楽部を結成するも離脱者が続出
⑩(1908年5月) 59(大同倶) 29(大同倶) 戊申倶楽部の約半数と中央倶楽部を結成
⑪(1912年5月) 50(中央倶) 29(中央倶) 中央倶楽部が立憲同志会の結成に参加し、第2党に

 

10議席を超える減少は第3、10、11回総選挙において見られる。順に37、30、21議席と、いずれも減少幅は小さくない。第3回総選挙については、その理由に、選挙干渉の恩恵を受けて膨らんでいだ議席数の維持すら難しい状況の下、初めて野党として総選挙に臨んだことが挙げられる。第10、11回総選挙では、野党であったという不利な条件の下、再編で膨らんでいた分が減ったのだといえる。どのような減り方をしたのか、当然分析する必要がある。第3回については、『キーワードで考える日本政党史』第3章第3極1列の関係(①)第3極実業派の動き1列の関係(①)で詳しく述べた。残る第10、11回総選挙について述べたい。この2回の総選挙も、吏党系が野党として戦っている。

次の、表補-Gを見てほしい。

 

表補-G:大同倶楽部所属議員の離脱と当落

・左は大同倶楽部の前の所属(帝:帝国党、自:自由党、甲:甲辰倶楽部、政:政交倶楽部、有:有志会、無:無所属)。

・議員の名字の次に「→」があるのは、辞職や死去によって議員が交代し、次も大同倶楽部の議院である場合。

・「×」は大同倶楽部離脱、「死」は死去、「戻」は大同倶楽部復帰、「S」は立憲政友会入り。

・「◎」は大同倶楽部から当選(次に選挙区も記した)、「×」は落選または不出馬、「-」は大同倶楽部からの出馬でないため省略。

・「復」は大同倶楽部復帰、「S」は立憲政友会入り

帝 安達      ◎(熊本郡)

帝 阿部      ×

自 浅野      ×

有 浅羽      ◎(札幌区)

帝 荒川      ◎(広島郡)

無 井上      ×◎S

甲 井上   死  -

帝 石田      ◎(島根郡)

帝 石谷      ×

甲 石塚   死  -

有 岩本  ×   -

無 鵜飼  ×   -

無 臼井      ◎(長崎郡)

帝 江角      ×

甲 小河      ◎(山口郡)

有 小山田 ×戻S -

無 尾身  ×戻S -

有 雄倉      ×

無 大久保 ×   -

甲 大戸      ×

帝 大野      ◎(岐阜郡)

帝 大畑      ×

帝 大淵      ×

帝 岡井      ◎(岐阜郡)

無 岡田  ×戻  ×

甲 奥村      ×

甲 片山      ×

無 兼松      ×

無 川真田 ×   -

無 河上  ×   -

甲 久保      ×

甲×栗原  ×戻S -

自 駒林      ×

甲 是永    S -

帝 佐々→柴垣   ◎(熊本郡)

甲 佐藤      ×

甲 七里      ×

無 城       ×

無 須藤      ◎(群馬郡)

甲 鈴木      ◎(名古屋市)

自 関     S -

無 関根  ×   -

甲×田中   ×  -

自 田中      ×

自 田村      ×

自 高木  ×戻  ×

甲 高梨  ×戻S -

帝 武市   ×S -

帝 谷沢      ×

無 千葉  ×   -

甲×寺井   ×  -

甲 内貴      ×

自 中谷      ×

甲 南條      ×

自 丹尾    S -

甲 野尻      ×

無 橋本  ×   -

甲 服部      ×

帝 原田      ×

無 板東  ×   -

甲 副島      ×

有×福地  死   -

帝 福留      ◎(鳥取郡)

帝 藤井      ×

甲 星野      ×

甲 本出  ×S  -

自 牧野  ×戻S -

無 松井  ×   -

自 松元   ×  ◎(兵庫郡)復S

甲 三井      ×

甲 三輪      ×

由 嶺山  ×戻  ×

有 宮部  ×   -

無 武藤  ×   -

自 藻寄  ×   -

自 持田      ×

甲 森   ×戻  ×

甲 矢島      ◎(長野郡)

有 矢島  ×戻S -

無 山口    S -

帝 山田省三郎   ×

甲 山根      ◎(東京市)

甲 横田      ◎(函館外)

無 横堀  ×戻  ×

無 横山  ×戻S -

帝 渡辺      ×

結成後の加盟

無 松家      ◎(香川郡)

由 松本大吉    ×

無 脇     S -

本 柴       ◎(若松市)

本 佐治      ×

政 竹内      ◎(岡山郡)

 

新当選者

東京  松下

岩手  小野

鳥取  奥田

松江市 岡崎

熊本市 山田

熊本  守山

内野

木村

※丸亀市の加治、函館区の小橋は第10回総選挙で初当選後、大同倶楽部から戊申倶楽部へ

新加盟者

函館区 小橋→戊申へ

松元(省略)

福島  堀江

宮崎  川越

 

第10回総選挙に立候補しなかったか、立候補したものの落選した大同倶楽部所属の議員は40名であった。このうち、前職や当選者の所属を比較して、どの勢力に議席が移ったのかを確認できるのは、36名分である。その36名分のうち、8名分は大同倶楽部が引き続き占めた。残る28名分の内訳は、立憲政友会15、戊申倶楽部6、又新会4、憲政本党2、無所属1である。

つまり立憲政友会に多くの議席が移り、自らとは異なる第3極の会派に、一定数の議席が移ったことになる。前者については、大同倶楽部内の旧自由党系の議席の多くが、立憲政友会に移った(戻った)と見ることができる。自由党出身の落選者9名のうち3名分は立憲政友会か戊申倶楽部に移っており、3名分は立憲政友会か憲政本党に移っている。9名のうち3名と2名がそれぞれ同一の選挙区であることで、9名のうち少なくとも3名分が立憲政友会に移っていることが分かる。もちろん、実際にはそれ以上であると思われる。ちなみに、帝国党出身の落選または不出馬の10名のうち、6名分を大同倶楽部が引き続き得ており、帝国党の地盤は比較的良く維持されている。大同倶楽部とは別の、第3極の会派に一定数の議席が移ったということは、吏党系であった大同倶楽部よりも、緊縮財政を求める戊申倶楽部(『キーワードで考える日本政党史』第10章④参照)に所属することとなる候補(総選挙の時点では大部分が無所属)、民党的であった又新会に所属することとなる候補(総選挙の時はほとんどが猶興会か無所属)が支持されたのかも知れない。しかし大同倶楽部の前議員達も、旧帝国党系、旧自由党系を除けば第9回総選挙(及びその補欠選挙)の当時は無所属であった者が圧倒的に多く、単に、前回と同じく無所属の候補が当選したに過ぎないともいえる。大同倶楽部とは異なる第3極の会派に議席を渡す形となった、旧帝国党系、旧自由党系以外の大同倶楽部の前議員を見ると、落選と不出馬がほぼ半々であったようだ(註1)。旧甲辰倶楽部系の片山正中が率いていた京都の大成会(衆議院に存在していた大成会とは別)の系譜の候補者、中安信三郎(1908年2月26日付読売新聞)は当選後、戊申倶楽部に属した。このような例もあるのだ。

表にはしていないが、第11回総選挙に立候補しなかったか、立候補したものの落選した中央倶楽部所属の議員は30名であった。このうち、前職や当選者、その所属を比較して、どの勢力に議席が移ったのかを確認できるのは24名分である。その24名分のうち、7名分は中央倶楽部が引き続き占めた。残る17名分の内訳は、立憲政友会11、立憲国民党2、無所属4である。

以上からいえるのは、桂内閣の準与党として結成された大同倶楽部と中央倶楽部が、総選挙の時には西園寺内閣の野党となっており、両派から与党の立憲政友会に、少なくない議席が移ったということである(大同倶楽部は第1次桂内閣の総辞職が決まった後に結成されたが、結成の構想自体は以前から長くあった)。

立憲同志会結成後の第12回総選挙後、季武嘉也氏が指摘している(註2)ように、自由党~立憲政友会系と立憲改進党~憲政会系のうち、一方が増加し、他の一方が減少するようになった。第1党が議席を増やすと第2党が減らす、第2党が増やすと第1党が減らすという相関関係が、明確になったのである。立憲同志会の結成前は、自由党~立憲政友会と立憲改進党~立憲国民党は、憲政党内の旧自由党系と旧進歩党系を含め、双方が議席を増やすか、共に減らすということの方が多かった。第2回から第11回までの全総選挙のうち、例外は第10、11回総選挙である(これについても、本来得票数の増減を比較すべきだが、政党、会派の再編の影響を加味する煩雑さを避け、あえて議席数の増減の比較に留める。総選挙の結果における議席占有率を、総選挙前の最後の議会における衆議院の解散当日、任期満了の場合は会期終了日のそれと比較しているが、第2回総選挙前については、衆議院解散後の自由党と自由倶楽部の合流を含めて比較した)。

一方で、同様にこの間の自由党系と吏党系を見ると、一方が増やすと、もう一方が減るということが多い。例外は、第8、10、11回総選挙である(第2回総選挙については、衆議院解散時の大成会と、結成時の中央交渉部を比較した。第8回総選挙では吏党系の議席数、議席占有率に変化がなかった)。第3、10、11回総選挙の例のように、吏党系の議席が大きく減った時、その減少した分の議席を最も多く吸収しているのは、自由党系である。なお、改進党系と吏党系は、第8、10回総選挙を除いて、同様の、一方が増えると他の一方が減る傾向を示している。

2大民党の系譜が、共に議席を増やしたり減らしたりしていたこと、2大民党の系譜と吏党系の間には、これと反対の傾向が見られるということは、薩長閥と民党が政権の姿を巡って対抗関係にあったことを考えれば、当然のことである。しかしそれでも、上に述べたことは重要である。政界縦断が漸進する状況下、薩長閥・吏党対民党という構造が変化したにもかかわらず、これらの傾向が引き続き見られたことは、一見矛盾しているからである。

これまで見たように、自由党系は改進党系と比べ、薩長閥と協力することが多かった。これから分析する第1次桂内閣から第3次桂内閣までの期間も、第1次西園寺内閣期の途中から自由党系と吏党系が対立関係となるが、山県-桂系と自由党系は、山県-桂系と改進党系よりも基本的には近かった。衆議院において薩長閥が最も関心を寄せる勢力であった自由党系に対して、薩長閥の支持勢力でありながら重要視されなかった吏党系が犠牲にされることがあった。それが顕著であったのが第3、10、11回総選挙なのである。これらでは、自由党系が有利な位置にあることを容認し、これに協力を求める以外に有効な手段を持たなかった薩長閥が、自由党系に事実上、自らの衆議院における支持基盤を削ることを許したのだいえる(第3回総選挙については『キーワードで考える日本政党史』第3章補足参照、第10、11回総選挙は、桂が政友会内閣の下での総選挙を許したという面がある。これに薩長閥の要人が強く抵抗したことを確認することができない)。

さて、議席を大きく減らした3つの総選挙を除けば、第6回において6議席の減少(26議席から20議席に)が見られる他は、吏党系の選挙結果は、減っても1議席であり、増えている回もある。吏党系が野党として戦ったのは、第3、10、11回という大幅に議席を減らした3回の総選挙と、日清開戦後であり、野党が政府との対立を以前より弱めた第4回総選挙、そして政権を得た民党に押された第6回総選挙である。この5回の選挙のうち、吏党系が内閣と対立していたわけではない第4回総選挙以外では議席が減っているから、やはり、度々野党となったことは、吏党系不振の要因であったといえる。

しかし、政府寄りとして臨んだ総選挙でも、議席を増やしたのは、第1回を除く5回のうち、第2回総選挙(38議席増)と、第7回総選挙(4議席増)の2回のみであり(第7回総選挙からは衆議院の定数が大きく増えているが、議席占有率を見ても、わずかであるが高くなっている)、政府寄りであったことは、選挙干渉が大々的に行われた第2回総選挙を除けば、大きな助けとはなっていないことが分かる。薩長閥政府の積極的なバックアップを受けられなかったのだから、不思議なことではない。

表補-Fにはまだ、注目しなければならない点がある。吏党系の減少傾向に、第7回総選挙で歯止めがかかっていることである(註3)。第7回総選挙では定数が以前の約1.3倍に増えており、帝国党の議席数も約1.3倍となっているから、現状維持の結果であったと見ることもできる。

第10、11回総選挙では、大きく議席を減らしているといっても、以前の20前後という水準を上回っている。表補-Fの「選挙後の再編」を見て欲しい。第6回総選挙後までは、吏党系に度々分裂が起こり、第7回総選挙後は、第9回総選挙後を除いて、それが起こっていないことが分かる。第9回総選挙後の分裂は吏党系として見た場合、その前の合流による拡大と比べる限りにおいては、小規模なものであった。総選挙を待たずに復帰し、少なくとも第10回総選挙までは大同倶楽部に留まった議員が6名おり、それを除けば、大同倶楽部結成後、衆議院の任期満了までに離脱したのは29名である(議員辞職した者、死去した者は除く)。帝国党19議席が大同倶楽部86議席となったことを考えれば、トータルでは離脱者が多かったとはいえないし、帝国党の大同倶楽部参加者18名(19名のうち1名は死去)のうち、同派を脱したのは1名に過ぎない。離脱者29名は結成時の大同倶楽部の86議席の、約33.7%にあたる(ただしこの間、同派の佐々友房の死去に伴う補欠選挙当選者を除き、6名の加盟者があった)。この割合だけを見れば間違いなく高いが、それでもこれから見るように、突出した数字ではないなお、第11回総選挙までの中央倶楽部からの離脱者は、結成時53議席の約9.4%にあたる5名である(加盟者1、補欠選挙当選者1、議員辞職・死去の2名を除いて計算した)。

分裂と選挙結果が無関係であるとは言わないが、あえて単純化して、第6回総選挙までの、双方による、吏党系への打撃の程度を比較したい。対象とする期間は、第1回総選挙後からではなく、議席数減少の起点である、中央交渉部の議席数が最大となった時点からとする。

中央交渉部の議席数は最大で92であり、これに含まれていた国民協会の議席は68であった。これは『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部で中央交渉部を最後に確認することができる、第4回帝国議会会期終了日の時点である。よって92から68を引けば、吏党直系から、結果的には離脱した議員の数を求められる。ただし、この時点で中央交渉部に参加しており、その後国民協会に加盟した議員が1名いる。このような例には吏党直系に留まったという面があるから、除外しなければならない(国民協会のその後の議席数を見ると、他にもこのような議員が数名程度いた可能性があるが、『議会制度百年史』院内会派編、報道等で確認することができないので、考慮に入れない)。よって92-68+1で、25議席が失われた計算になる。これは92議席の約27.2%に当たる。第3回総選挙から第4回総選挙の前までに国民協会を離党した議員は6名(第3回総選挙で得た32議席の約18.8%―新たな加盟者、補欠選挙当選者、議員辞職・死去した議員はいなかった―)、第4回総選挙から第5回総選挙の前までに国民協会を離党した議員は16名であった(加盟者7、補欠選挙当選者5、議員辞職・死去の5名を除いて計算すると、第4回総選挙で得た32議席の50%になるが、離党者のうち3名は加盟者7名に含まれるから、彼らを除き、離党者を13名として約40.6%)。第5回総選挙から第6回総選挙の前までは、国民協会を離党した議員はいなかった。第6回総選挙から第7回総選挙の前における、国民協会離党者、帝国党不参加の国民協会議員、帝国党離党者の合計は、16名であった。同時に、帝国党への改組による9名の、加盟者とし得る議員達がいた(そのうち3名が離党)。あえて、この9名の加盟者とし得る議員を除外して、第6回総選挙で国民協会が得た20議席と、国民協会→帝国党の離党者数を比べてみる。帝国党結成時に加盟したものの離党した(つまり短期間だけ吏党系に参加していた)3名、国民協会を離党して帝国党の結成には参加した(つまり短期間だけ離れていた)1名、国民協会者の議員辞職に伴う補欠選で国民協会から当選した1名の分(つまり国民協会→帝国党が議席を維持した分)を除き、当選無効となった1名と補欠選挙当選の1名を差し引きゼロとして除外すると、11÷20×100で、55%が離党した事になる。次に、上の9名の加盟者を含めて見ると、加盟者は実質6名なので(すぐに離党した3名分は上の計算でも除外してある)、離党者は差し引き5(11-6)となり、5÷20×100で、25%が離党した事になる。これでも4分の1であり、政党の離党者としてはかなり多いと言える。

さて、第2回総選挙以後、分裂による吏党直系の議席の減少は合計54となる。第3回総選挙から第6回総選挙までの、総選挙による議席の増減は、表補-Fを基に計算すると、差引き38の減少となる。またここから第3回総選挙の結果を除外した場合、総選挙による議席の増減は、差引き1の減少となる。

離脱者(離党者)を数えたのが5つの期間、総選挙による増減を計算する対象としたのが4つの総選挙であるから、前者が1多い。これを不均衡だと見ることもできるから、第7回総選挙の結果を加味してみようと思う。すると、総選挙による議席の増減は、差引き34の減少、第3回総選挙の結果を除外した場合は、差引き3の増加となる。吏党系の議席数の減少は、総選挙よりも分裂によるところが大きいこと、度重なる分裂と第3回総選挙によって、吏党系の議席の減少を大部分説明し得ることが分かる。

確かに、選挙干渉が大々的に行われた第2回総選挙の結果は、吏党系の本来の実力を超えたものであった。それならば、第2回総選挙での議席の増加を排除して、同様の計算をするべきかも知れない。その場合、第3回総選挙の結果に、選挙干渉に対する反発が影響を及ぼしているとすれば、本来はその分を差し引かなければならない。しかし、そのような反発を、正確に議席数の減少幅に転換することはできない。だから単純に、第2回総選挙の前の衆議院の解散時点での大成会の議席数46と、第3回総選挙での国民協会の獲得議席32をつながざるを得ない。その場合、吏党直系は14議席を減らしたことになる。この数字を用いると、吏党直系は分裂で36議席を失い、総選挙で差引き15議席減らしたことになる(第6回総選挙までの合計であり、第7回総選挙を含めると差引き11議席減)。この計算でも当然ながら、総選挙よりも分裂の方が打撃であったという結論は変わらない。むしろそのような面が引き立つ。

以上から、第3回総選挙における大敗を除けば、総選挙の結果よりも分裂が、吏党系を不振に陥らせたのだといえる。表現を変えれば、度重なる分裂と第3回総選挙における大敗とが、吏党系を不振に陥らせたのだということになる。その分裂について整理したい。

第2回総選挙後、衆議院では中央交渉部90名のうち59名、そして、結成時の中央交渉部の参加者には名が挙がっている無所属の3名、他の無所属5名の計67名が、国民協会を結成した。中央交渉部の国民協会不参加者は、31名であった。この不参加者のうち3名は、実業団体を結成した。実業団体は7議席であり、彼ら3名の他、3名が、結成時の中央交渉部の参加者に名が挙がっている議員である。また国民協会不参加者のうち別の5名は、井角組を結成した。当時、広島県内から選出された議員10名のうち、8名が中央交渉部に参加していたが、そのうちの5名が、井上角五郎を中心にまとまったのである。国民協会、実業団体、井角組の議員達は、中央交渉部と両属する形を採った。つまりこの段階では、吏党系の議席数の減少は、数字には表れない。国民協会が野党化した後、第5回帝国議会が開かれた1893年11月には、中央交渉部は消滅していたようだ。ここで初めて表れるのである。

第5回帝国議会の開院式当日の吏党系は、国民協会の70名であった。内閣が代わったとはいえ、同じ薩長閥政府と呼べるものに対して野党化した国民協会を、吏党の直系と捉えることには多少のためらいを覚える。中央交渉部に属した議員達のうち、国民協会が野党化し、他の多くは、例外はあるものの野党化しなかったからだ(ただし準野党化した議員は少なくない)。しかし国民協会は本来、薩長閥政府支持派としての色を強めようと結成されたものであり、議員数も多かったから、やはり国民協会を吏党直系とするべきだと考え、吏党系としている(通説の通りだと言えよう)。

第3回総選挙から、第6回帝国議会における衆議院の解散までの約3ヶ月間に、衆議院議員6名が国民協会を脱した。氏名を確認できるのは4名、そのうち1名が中立倶楽部、1名が湖月派の結成に参加し、2名が無所属となった。この離党の動きは、伊藤系が国民協会の分裂を策していた当時のことであり(『キーワードで考える日本政党史』第3章補足参照)、いずれかの動きに伊藤系が関わっていた可能性は否定できない。

第4回総選挙から、第11回帝国議会における衆議院の解散までの約3年4ヶ月の間、国民協会から衆議院議員16名が離れた 。うち1名が実業団体に、4名が議員倶楽部に参加、8名が国民倶楽部を結成(ただし、うち1名は結成から2日後の参加)、1名が実業同志倶楽部の結成に参加、2名が無所属となった。この間、加盟者も7名確認できる。議員倶楽部、国民倶楽部、実業同志倶楽部は全て、政権末期は別として(註4)、第2次松方内閣を支持したか、同内閣寄りであった会派だ。特に議員倶楽部と国民倶楽部は、親薩摩閥勢力の統一会派という性格を持っていた、公同会に参加している 。国民協会離党者について確認すると、議員倶楽部に参加した4名、国民倶楽部に参加した8名の全員が、公同会に参加している。

これに以下のことを合わせて考えると、第4回総選挙後の吏党系の分裂に、山県寄りと薩摩閥寄りへの分化という性格があったことは間違いないと言える。

・第2次松方内閣は大隈重信を入閣させ、進歩党を事実上の与党としたが、山県は民党との提携に否定的な考えを持っていた。

・国民協会は第2次松方内閣に対して野党的な立場を採った(註5)。

・1896年2月25日から1897年1月7日にかけて、国民協会の全ての鹿児島県内選出議員が離党した。

・国民協会離党者の多くが親薩摩閥の会派に参加している。

・議員倶楽部に参加した柏田盛文らは、山県によって国民協会が抑えられたことに反発して、国民協会を離党した(『キーワードで考える日本政党史』第4章④参照)。

ただし、薩摩閥は第2次松方内閣期に政権の中心にあったから、これに寄った議員達には、単に時の権力にすり寄ったという面もある。議員達の国民協会離党の時期をみると、国民倶楽部、実業同志倶楽部を結成した議員達は、第2次松方内閣の成立後に、離党している(例外は実業同志倶楽部の吉田祿在)。しかし議員倶楽部に参加した議員達のうち、少なくとも3名は、その前の第2次伊藤内閣期に離党している。

第5回総選挙から、第12回帝国議会における衆議院の解散までの約3ヶ月間、国民協会を離党した議員はいなかった。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部は、第5回総選挙における国民協会の当選者を22名とし、その後の第12回帝国議会開院式当日の同党の所属議員を26名としているが、その間の加盟者に関する記述はない。前述した通り、この当時の党派別の当選者数、議席数は明確な把握が困難であり、数え方によって、多少の増減があり得る。報道では確かに、大岡育造以外の山口県内選出の全員、または多くが無所属、あるいは準国民協会とされている。山口県で国民協会の議員が大幅に増えたのは、第3次伊藤内閣が第2次伊藤内閣の時のように、国民協会を敵視しなかったからだと考えられる。第5回総選挙の約3週間前、1898年2月24日付の伊藤宛の書簡において、伊東巳代治が目黒貞治の幇助を、「特別外之特別」として頼んでいる(『伊藤博文関係文書』二384~385頁)ことから、内閣は自らの支持派を特に援助しようとしていなかったと考えられる。山口県内選出の無所属議員の多く(少なくとも実業団体―第4回総選挙後―出身者)も、同県で当選者をほとんど出せなくなっていた国民協会も、共に第3次伊藤内閣を支持していた。そのような状況下、特に内閣の関与がない中で、また連続当選を目指す議員が少ない状況において、国民協会に属する候補、同派に近い候補が当選したのだと考えられる。

第6回総選挙(1898年8月)から1年近くが経った1899年7月、国民協会は、解散していた日吉倶楽部の出身者2名、憲政党離党者1名、国民協会離党者1名を含む無所属議員のうち6名と、帝国党を結成した(結成後に憲政本党離党者3名が参加)。この際、国民協会からは、6名の不参加者が出た。その後、第7回総選挙前の第16回帝国議会の会期終了(1902年3月)までに、帝国党からは8名の離党者が出て、うち6名、そして上記の帝国党不参加者6名が、立憲政友会の結成に参加したか、または結成後の同党に加わった。この間、国民協会に新規加盟はなく、帝国党には3名の入党者があった。また国民協会からは2名の離党者が出て、1名は議員辞職をし、その分の補欠選挙を国民協会が制した。また1名は帝国党の結成に参加した。事実上の復党である。

国民協会に属しながら帝国党の結成に参加しなかった議員6名は、全員が山口県内選出の議員達であった。当時国民協会には、山口県内選出の全7名が属していた。その全員が帝国党に参加しなかったか、参加後間もなく離党したのである(前者が5名、後者が2名)。国民協会が帝国党となる過程において、大岡育造ら山口県内選出の議員達は、新党結成を考えていた伊藤に、帝国党となる新党への不参加を働きかけられていた(『伊東巳代治日記・記録―未刊翠雨荘日記』第1巻525頁)。なお、国民協会系から立憲政友会に移ったといえる計12名のうち、3名のみが第4次伊藤内閣期に入ってからの移動である。他の9名の移動は、第2次山県内閣期、立憲政友会がまだ結成されていなかった時期から与党ではなかった時期に起こっている。

以上をまとめると、中央交渉部が、山県系となる国民協会や、初めての実業家中心の会派であった実業団体に分裂し、基本的には、薩摩閥に寄った議員達が国民協会を脱した後に、同党の系譜から伊藤系、あるいは伊藤系となった議員達が、さらに脱したということになる。

大成会が吏党系、中立派、新民党に割れ、そのうちの吏党系、つまり残部の本流を汲む中央交渉部の系譜は、山県寄り、薩摩閥寄り、実業派などに分かれたのである。伊藤系は、実業派の一部を味方にすることには成功していたから、それも含め吏党の系譜は、山県系と伊藤系と薩摩閥によって3分割されたのだといえる。

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