3-17. 第3極の諸類型の誕生と4極構造の出現3.補論

3-17. 第3極の諸類型の誕生と4極構造の出現

4極構造はあったのか、あったとすれば、その起点はどこであったのだろうか。これまで見てきたことを踏まえて、第3極の諸類型の誕生を確認することで、答えを導き出したい。

薩長閥と民党の対立は、衆議院では吏党と民党の対立であった。しかし政党として組織化されていた民党と違い、吏党は当初、立場の不明瞭な会派に過ぎなかった。そしてそこから、準与党的、準野党的、野党的な会派が誕生した。短期間でのことであったとはいえ、曖昧な吏党から複数の異なる立場の会派が出現したことは、例えばイギリスにおいて、政党の存在しない議会で、立場の異なる複数の政党等が徐々に形成されていったことに似た面があった。

薩長閥政府は政党を結成しようとせず、会派すら積極的に育てようとしなかった。このことは、劣勢であった、衆議院における彼らの陣営の中から、野党や準野党(一般的中立)が育つ結果を招いたのである。各段階で野党の勢いが影響したことも確かであるが、薩長閥政府が自ら政党を結成していたなら、議会開設前後の政党、会派の分布は異なるものとなり、議会史は全く違うスタートを切っていたであろう。

その後、共に中立的な面を持った勢力である、吏党から分裂した独立倶楽部と、民党(立憲自由党)から分裂した自由倶楽部という2つの会派の流れを汲むか、その流れと合流して利用しようとした者達によって、政界縦断は漸進していった。そしてこのことが吏党系を野党化させ、第1極から第3極に転落させたのである。吏党系が第1極であったのは、薩長閥と民党が対立する状況下、薩長閥政府の側にあったという意味であり、第3極となったというのは、薩長閥政府に接近していく第1党が第2党と対立する状況下、第3党に転落したということである(すでに述べた通り、伊藤系と自由党系による政界縦断の漸進が始まる前-第4回帝国議会まで-については、薩長閥・吏党と民党が第1、2極であったと捉え、後については自由党系、改進党系をそれぞれ第1、2極と捉えている)。この当時、自由党にありながら薩長閥との妥協である縦断路線に否定的であった議員達は、離党して新民党となった。そして吏党と無所属から誕生していた新民党と合流、拡大新民党となったのである。

薩長閥の吏党に対する一体的な指導、バックアップの不足が、吏党の陣営から一般的中立と新民党を生み、第2回総選挙後に一般的中立が一段階進めた政界縦断が、第3極としての吏党系、そして民党離党者による新民党を生んだのである(民党から誕生した一般的中立、つまり自由倶楽部は自由党系に戻った)。そして、新民党は2大民党の野党共闘を助け、自由党系が薩長閥に寄ると、吏党系と共に改進党系に与した。第3極の諸類型は、薩長閥の一体的なバックアップの不足を起点として、連鎖的に誕生したといって良いだろう。もちろん、政界縦断が不可避であったという状況がそれを助けた。

中立実業派、親薩摩閥がまだ登場していない。前者の誕生については、まだ扱っていない、第3回総選挙前後の長州閥伊藤系、これと協力した井上馨の志向にある。親薩摩閥は消滅するし、中立実業派は一般的中立とまとめて中立派として扱うこともできるから、ここで無理に触れることはしないが、それらは主に吏党系から分かれ出でたものであり、それらの誕生は薩長閥の不統一を起点とする、もう一つの連鎖によるものである。詳しくは後述するが、議会全体というよりも吏党系からさらに、新たな立場の勢力が生まれたのである。

第3極は当初、確かに第1、2極の間にあった。薩長閥と民党が専ら対立していた議会開設当初はもちろん、伊藤系と自由党系が接近して2大民党が明確な対立関係となってからも、長く間にあった。2大民党が対立関係となった後についていえば、吏党系の国民協会は立憲改進党と組んだ後、自由党と接近した。そして第3次伊藤内閣期まで、時に薩長閥政府の準与党であり、時に薩長閥政府に対する野党であった。つまり2大民党がそれぞれ第1、2極であったと捉えても、薩長閥と民党がそれぞれ第1、2極であったとしても、その間を移動していたといえるのである。ただし第3次伊藤内閣期以後は、吏党系が薩長閥政府の野党となることはなかった。

新民党は、少なくとも全体としては薩長閥政府に接近することがなく、民党以上に民党的であり、長期的に見れば、改進党系よりも左の極を形成したといえる。しかし彼らは改進党系と合流することが多く、独自に存在していた期間が短い。1892年11月結成の同盟倶楽部は、拡大新民党の立憲革新党を経て1896年3月に改進党系と合流するまで存在した。しかし、この間、立憲改進党に薩長閥への接近の動きは見られず、また対外硬派をまとめて第2極と捉えるべき状況であった。新民党が改進党系より左の極を独自に形成していたとまでは言い難いのである。

第3、4回総選挙の前後は、中立が消えかかった時期である(『キーワードで考える日本政党史』第2~4章参照)。政界縦断の前進に対する左右からの反発は、共に第2回総選挙後である、国民協会の野党化と同志倶楽部の結成に直結しているが、この2つの勢力は対外硬派として、時限的なものとはいえない共闘を立憲改進党と組んだのである。中立が消えかかっても、最も右の極となるべき勢力、左側の2つの極(改進党系と新民党)が全て一つの陣営であったから、左右の両端の極も存在していないといえる状況であった。

左の極が安定するのは、2大政党の連携が不調の時である。そうでなければ薩長閥・吏党系対、民党連合の2極構造(一定規模以上の中立派が存在すれば3極構造)となるからである。このような構造であっても、2大民党を批判する左の極が出現することがあり得ないわけではない。しかし2大民党が共に野党であれば、野党同士そうはなりにくいし、なにより新民党は、2大民党の連結器であった。また、2大民党が共に担う政権が長続きするということは、すでに述べた通り、起こり得なかった。そうであれば新民党は、新民党を絶望させるまでの時間を経ていない2大与党の陣営にあるはずである(憲政党結成に第3極から参加した議員達は、2大民党の系譜に失望した時、憲政倶楽部を結成し-註1-、独自性を強めた。その後間もなく憲政党自体が崩壊した)。無産政党(社会―民主―主義政党)であればそのようなことはないかも知れないが、ここで対象とする明治、大正期には、衆議院に無産政党は存在していなかった。

2大民党の連携が不調である時、あるいはそもそも両党に連携する意思がない時、新民党は、1列の関係の劣位にある改進党系と接近することになる。共に自由党系と戦うのである。対外硬派が自由党と対立した例は、これに当たる。しかし、改進党系が自由党系に対抗して薩長閥と接近する時、新民党は孤立する。そうなれば、彼らは最も左の極となる。第1、2党の双方と戦うのである。この場合、新民党が一定の勢力を維持する限り、左の極は安定する。明治、大正期には、新民党が孤立する状況になったことが、2回ある。

まずは第2次伊藤内閣期から第2次松方内閣期にかけて、進歩党が薩摩閥と接近した時である。この時、新民党は改進党系に合流しており、新民党の孤立が、進歩党離党者による同志会の結成となって表れた(8議席であった同志会には、立憲革新党という拡大新民党の出身議員が2名含まれていた)。

次に憲政本党が、政界縦断を策すのか、薩長閥に対抗する姿勢を維持するのかについて、迷走した時である。この時期、同志研究会の系譜は時に憲政本党と協力しながらも、独自に左の極を形作っていった。そして同派の本流を汲む又新会が再編に関して分裂するまで、左の極を担っていたと見ることができる。

右の極はいつ、安定的なものとして現れたといえるのだろうか。いわゆる右翼的なものとしては、鳥尾小彌太の保守中正派、九州等の国権派を挙げることが出来る。しかし、前者は第1回総選挙で6議席ほどを得たに過ぎず、独自の会派を結成することもなく消滅した。衆議院における国権派を含んだ吏党系は、一時は民党の立憲改進党と共闘した。他の国権派等を含めて、政党内閣を目指す民党と共闘した勢力は、ここでいう「右」とするのに相応しくない。共闘が政党内閣を容認するものではなく、その他の面で一致したための、当面のものであることを当事者が明確にしていれば話は別だが、そのようなことを示す史料を、筆者は知らない。

吏党系は大成会の分裂、国民協会の結成によって、薩長閥政府支持政党への道を、純化しながら歩んだといえる。しかし国民協会は、立憲改進党と組んだ後は、自由党に接近した。同党の板垣が党籍を離れた上で第2次伊藤内閣に入閣した際には、政党を背景とした入閣に否定的な立場を採りつつ、功臣としての入閣に理解を示し、功臣を網羅する内閣を提案することで、同党の苦しい立場をさらしている(1896年4月27日付読売新聞)。第2次松方内閣期には、自由党と野党同士連携し、進歩党からの人材登用に反対の立場を採った。そして自由党との連携は、入閣、政党内閣を目指す同党の姿勢に対する賛否を、曖昧にしたまま進められた(反対はしたが、ことさら問題にはしなかったのだといえる―註2―)。同党は山県系の色を濃くしながらも、それと決定的に矛盾しない限りは、大勢力に寄ろうとする性質を示して、伊藤系、自由党とも接近することがあり、右の極を形成するには至らなかったのである。

国民協会には、その結成時から、自らに近い人物の入閣を模索する動きがあった。それは、同党からの入閣の模索ではないという点で、超然主義に反しない姿勢ではあった(註3)。では、形の上でだけ政党を脱した、「元政党員」の入閣は認められるのだろうか。元党員は駄目だというなら、元会頭の品川弥二郎の入閣は認められないはずである。このような点を明確にしなかったことで、吏党系は自由党系との連携を実現し、また明確に右の極を形成することがなかったのである。

2大民党を共に野党とした第3次伊藤内閣期、2大民党による第1次大隈内閣期、自由党系が閣外協力をするに留まった第2次山県内閣期には、国民協会が右の極を担っていたようにみえる。しかし国民協会は、薩長閥と自らに、自由党系をも加えた協力体制を模索するようになっていった(註4)。それは、自由党系からの入閣を明確に否定した上で、連携しようとするものではなかった。

国民協会等による帝国党の結成は、国民協会から、与党化を志向しており(註5)、伊藤と近く(註6)、政界縦断に与しようとする勢力でもあった大岡育造らを放出することになった(『キーワードで考える日本政党史』第6章補足参照)という点で、吏党系が右の極を形成するための重要な一段階となった。しかし帝国党、その後継の大同倶楽部は尚、自由党系に寄ることがあった。帝国党は、共に第2次松方内閣の準与党であった憲政党との提携を策した(1899年8月15日付東京朝日新聞)。大同倶楽部は、政友会内閣という面を持つ第1次西園寺内閣にも当初は好意的であり、同内閣期に初めて自由党系と明確に対峙するに至っている(この経緯については『キーワードで見る日本政党史』第9章参照)。ここで初めて、吏党系が第1、2極と一線を画す、右の極を明確に形成したのだといえる。この右の極は、山県系の桂太郎が政界縦断を策し、吏党系がこれに同調するまで続いた。

これで4極構造の起点は明らかになった。左の極は同志研究会の結成を以て誕生したという面があるが、改進党系の憲政本党が民党の色を強く持っている限り、そうとはいえない面も残る。同志研究会結成の当時は、立憲政友会と憲政本党が野党として共闘する方向へと進んでいた(この共闘に新民党、つまり同志研究会の系譜も関わっていた)。しかし桂太郎と立憲政友会の取引によって第1次西園寺内閣が誕生し、憲政本党が同党に切り捨てられる状況となった時、憲政本党は動揺し、迷走を始めた。ここに明確に、同志研究会の系譜との差異が現れた。左の極が存在するようになったことは明確である。そして右の極の安定化も上に述べた通り、第1次西園寺内閣期である。よって、大同倶楽部の野党化が4極構造の起点だということになる。もちろん、それ以前から4極化へ向かう傾向はあったが、ここで4極構造が完成したということである。4極構造となっても、左右の極が共闘することはあった。しかし、それは限定的なものであった。

吏党系は左の極の形成によって初めて、第1、2極の間に位置する勢力であるのか、右に位置する勢力であるのか、態度を明確にすることを迫られたのだといえる。

左の極が薩長閥政府に接近する第1、2極(第1、2党)に対抗しようとする時、吏党系は、右の極として第1、2党に対抗するのか(時に左の極と協力することもあり得る)、薩長閥と協力することの比較的多い第1極(1列の関係がある以上は自由党系だということになる)の陣営に入るのか、明確にすることを迫られることとなる。正反対の立場である左の極と一体化すること、左の極と姿勢の近い議員も多く含む第2極の陣営(つまり改進党系の陣営)に組み込まれるということは考えにくい。第1、2極と一線を画すというだけで、具体的な方針を示さないことは、姿勢の明確な左の極がある中では難しい。衆議院の人事、法案等の採決など、彼らが試される場面は、いくらでもあった。

立憲政友会の振る舞いが、山県系の喜ばないものとなっても、薩長閥政府が第1党の地位を維持する同党の支持を、必要としないような状況とはならなかった。同党が衆議院の過半数を割った時も、第2党の内部がまとまっていなかったことなどから、非政友会勢力を政権の基盤とする事は難しい状況であった。一方の立憲政友会も、薩長閥との関係を悪化させては党首への大命降下を期待できなかった。このため、薩長閥と自由党系(立憲政友会)とが決定的な対立関係となることはなかった。そのような状況の下では、吏党系は立憲政友会を牽制し、山県系の意向を汲んで薩長閥政治の要素の温存に与する役割を担わざるを得なくなる。

立憲政友会を牽制するには、第1、2極の間に位置するのが得策であった。立憲政友会が1903年の分裂の影響によって衆議院の過半数を割っていた当時のことであるが、大同倶楽部が郡制廃止案について賛成から反対に転じて野党化した時は、法案の衆議院の通過を阻むことはできなかったものの、内務大臣であった立憲政友会の原敬を焦らせた(註7)。山県の三党鼎立構想も、このような策、つまり山県の意を汲む第3勢力が第1、2党の間でキャスティングボートを握り、双方を牽制することの有効性に期待したものであったといえる(註8)。

しかし憲政本党は左(反薩長閥)に傾くことが多く、吏党系にとっては決して組みやすい相手ではなかった。憲政本党が左右にぶれて、そして何より左の極がある以上、吏党系は時にこれらと限定的な協力をするとしても、右に位置して立憲政友会を牽制するしかなかった。第1、2極の間、つまり左から牽制することは、立憲政友会を追い込むことにはなっても、山県系の意向を汲んで、薩長閥政治の要素の温存を助ける役割を担うことにはならないからだ。むしろ、急進的な勢力を勢い付かせるだけだからだ。

さて、4極化というには、中立派の縮小がなければならない。上で見た状況になっても、一定数の中立派があっては、それは5極構造だからだ。最後に中立派の縮小を見ることにする。

立憲政友会から大量の離脱者が出る前、第3極には吏党系の帝国党、中立実業派の中正倶楽部、一般的中立の政友倶楽部、新民党の同志倶楽部があった。当時の中立派の中には、実際は薩長閥寄りの議員も多く含まれていたが、それらは衆議院での投票行動に留まらないような、政治状況を自らも動かそうとするような行動を採ることはなかった。1つの会派に結集しようとする動きも、立憲政友会から離脱者が立て続けに出始める前には見られなかった(註9)。元来の中立勢力の本流を汲んでいたといえる勢力(中正倶楽部-と無所属の一部-)、自由党系の除名者等(政友倶楽部)、改進党系の分裂に原点を持つ勢力(同志倶楽部)は、共に第1次桂内閣支持派か第1次桂内閣寄りであり、差異に乏しくなっていたにもかかわらず、ただ並存していた(ただし三四倶楽部に源流をもつ同志倶楽部には、新民党的な性格があった。だが対外強硬派が多かったがゆえに、2大政党の連携に批判的であり、山県-桂系に寄ろうとしていた憲政本党等の対外強硬派と近い面があったのである―『キーワードで考える日本政党史』第7、8章参照-)。

そこに起こった立憲政友会の大分裂は、議席数の上で、第3極を第1極(第1党)と対等なもの、第2極(第2党)を上回るものとした。また交友倶楽部への参加によって一般的中立の会派の一部となった同志倶楽部に代わって現れた新たな新民党は、姿勢がより明確であった。これにより吏党系は、第1、2極と渡り合えるという希望と、態度を鮮明にしなければならない状況を、共に与えられたのだといえる。

立憲政友会の大分裂は、同党から63名もの離党者が出たものであった(註10)。同党が衆議院の過半数を66議席下回り(第9回総選挙へとつながる、第19回帝国議会における衆議院の解散当日である1903年12月11日の時点)、且つ、無所属を含む第3党以下の議員達の総数171が憲政本党の82議席を大きく上回るものとなったことは、第3極にとって大きなチャンスであった。

第8回総選挙の結果は憲政本党84議席、無所属72を含む第3党以下が111議席であった。第7回総選挙を見ると憲政本党90、無所属66を含む第3党以下が96であった。もともと僅差で憲政本党が下回っていたものが、憲政本党の不振と、立憲政友会から除名となった議員が出たことで広がっていた。実際には無所属の中に、決して会派に属することがない議員達が、最も少なく数えても20名はいたから、桂・伊藤合意に起因する立憲政友会の分裂で初めて、第3党以下の連合体が、第2党を上回る勢力となる可能性が飛躍的に高まったのだといえる。

また立憲政友会の分裂は、第3極への個性的、且つ有力な政党政治家の流入をもたらした。その後間もなく、河野広中も憲政本党から第3極へ移った(『キーワードで考える日本政党史』第9章参照)。このことで4つの政党、会派がほとんど無意味に分立していた第3極の中立派(同志倶楽部は新民党といえる一方、多くが憲政本党内外の対外強硬派と同様、2大民党の連携に反対であり、中立的な面を持っていた)は、政党政治家の志向に影響を受け、再編を排除せず、自らの影響力を高めようする傾向を強めていくのである(それでも再編には時間がかかった)。1903年12月に新たに誕生した同志研究会、交友倶楽部、自由党の3勢力は全て、立憲政友会の離党者によって結成された(交友倶楽部は、立憲政友会離脱者や新潟進歩党系が合流したものであり、憲政本党の別動隊とみられることもあったが、立憲政友会離脱者が新潟進歩党系に譲歩したということはなかった-第9回総選挙では新潟進歩党系が減少し憲政本党が盛り返した-)。しかし同じ母体から誕生したにもかかわらず、3者、特に同志研究会と他の2派の志向の差異は大きく、中立派と無所属は、野党の結集を図る同志研究会と、帝国党と同じく山県-桂系の側となる交友倶楽部と自由党の側に分かれていく。

以上の2点、つまり第3極にとっての有効な機会の到来と、政党政治家の流入による志向の変化により、第3極は本格的な再編が行われる過程に入ったのである。ここで重要なのは、その再編が吏党系の帝国党と新民党の同志研究会の系譜を中心に進められ、第3極における左右の別が明確になっていったということである。帝国党と桂を頼った自由党、そして新民党の同志研究会の双方が、中立会派の議員達、無所属の議員達を集めていき、新民党が左の極を、吏党系は右の極をつくっていったのである。4極構造は、新たに誕生した新民党、その加盟者と、再編過程でより多くの議員を集めた吏党系の陣営との、明確な相違を基に誕生したのである。

なお、立憲政友会は議席数を減らしたとはいっても、第2党のちょうど1.5倍の議席を有しており(上記と同じく12月11日時点)、その議席数を自らが政権を担った際、総選挙や入復党によって回復している。一時的に優位性を弱めたものの、優位政党の地位は辛くも維持したのだといえる。非政友会勢力の多くがまとまれば、同党はその地位を失っていたかもしれないが、4極化はそれを許さなかったし、4極構造の土台となる1列の関係が崩れるほど、立憲政友会の議席数は少なくはならなかった。現に憲政本党は立憲政友会と野党として連携し、その抜け駆け、つまり桂との接近による次期政権の獲得、そこからの憲政本党の廃除を許している(その時点では立憲政友会の議席数はまだ、過半数を40以上下回っていた)。

また、4極化した後、一時的に戊申倶楽部という大きな中立会派が存在したが、早期に、主に吏党系と合流した。

立憲政友会の1903年の分裂については、この自由党系の分裂が、薩長閥の不統一、吏党に対するバックアップの不足と同じく、第3党以下のあり方を大きく変えたのは確かだ。明治期の第3党は吏党の系譜、あるいは吏党的な勢力であったとされることが多いが、自由党系から分かれた新民党の系譜が衆議院の第3勢力であったことも重要だ。