日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
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補足~憲政本党の2派~

憲政本党の内部は非改革派と改革派の2派に分かれていた。1908年とされる12月10日付の、小栗貞雄(新聞記者。元憲政本党衆議院議員)宛の犬養毅の書簡によれば、改革派は、当時矢来組と呼ばれた、尾崎行雄が憲政本党を離れて立憲 …

第9章 ~1904年3月、第9回総選挙~

立憲政友会5増の128議席で3分の1強、憲政本党約10の91議席で4分の1弱、会派自由党23、帝国党17、無所属120、計379。 ※以下とりあえず本章に限り、立憲政友会の離党者達が結成した自由党を、以前の自由党と区別す …

第8章 ~1903年3月~

①選挙結果 立憲政友会181、憲政本党84、帝国党17、壬寅会15、新潟進歩党7、 無所属72(→中正倶楽部25、政友倶楽部13)、計376 立憲政友会、憲政本党の2大政党は前職優先の選挙協力をしたが、議席を少し減らした …

第7章

①選挙制度 衆議院議員選挙法の改正(第6章⑪参照)により、府県単位の大選挙区制となった(さらなる同法改正により、新たに人口3万人以上となった市、人口要件を満たしており、新たに市制が導入された市が独立した選挙区となり、横浜 …

第6章 ~1898年8月、第6回総選挙~

①選挙結果 憲政党263(→自由党系の憲政党112、改進党系の憲政本党138)、 国民協会20、無所属17(→同志倶楽部10)、計300 初めての政党内閣、それも圧倒的な1党優位の状況下での総選挙であった。優位政党である …

進歩党の敗北

立憲改進党は、指導者であった大隈重信が薩長閥政府の外務大臣となり、外国人が被告となる裁判への外国人判事の任用を認めることで、不平等条約の改正を実現させようとした。このことから、立憲改進党は第1回総選挙の当時、人気を落とし …

戦前の非優位政党再編の総括

※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。   戦前の第2党を中心とした再編のポイントは、本来立憲改進党と同様に薩長閥と対 …

改進党系の苦悩

※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。   帝国議会開設当時の衆議院における第1、2党は、立憲自由党と立憲改進党であっ …

3-24. 2つの政界再編構想による中立壊滅、第3極縮小

実業家層には本来、その全てにとは言わないまでも、自らの利害を代表する政党が必要であった。当時議会制を採っていた他の国々を見れば、商工業を主な支持基盤とする政党と、農業を主な支持基盤とする政党が分立していた。ドイツ帝国のよ …

3-17. 第3極の諸類型の誕生と4極構造の出現

4極構造はあったのか、あったとすれば、その起点はどこであったのだろうか。これまで見てきたことを踏まえて、第3極の諸類型の誕生を確認することで、答えを導き出したい。 薩長閥と民党の対立は、衆議院では吏党と民党の対立であった …

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