日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補足~憲政本党の2派~

補足~憲政本党の2派~

憲政本党の内部は非改革派と改革派の2派に分かれていた。1908年とされる12月10日付の、小栗貞雄(新聞記者。元憲政本党衆議院議員)宛の犬養毅の書簡によれば、改革派は、当時矢来組と呼ばれた、尾崎行雄が憲政本党を離れて立憲政友会に参加した時の残物であったのだという。つまり、尾崎が立憲政友会の結成に参加する際に、行動を共にする可能性のあった議員達である。首領は鳩山和夫であり、その後平岡一派が参加して、萬安組という有力な団体になったのだという。平岡とは国民協会、公同会、山下倶楽部出身の平岡浩太郎。この万安組は、憲政本党のほとんど半数となったが、これを犬養と大石が抑制していた。しかしこれが改革派と称するものになり、その時には大石が指揮官になっていたのだという。

以上、犬養の書簡(『犬養木堂書簡集』94頁)に基づいて述べたが、当時の報道によって大方確認することができる。矢来組、万安組という名称は紹介していないと思うが、『キーワードで考える日本政党史』第6~9章でも触れている(いずれリンクを貼りたい)。なお、同年の前川虎造(新聞記者。後に立憲国民党→革新倶楽部衆議院議員)宛の書簡(日付なし)で犬養は、改革派に後藤から運動費が支出されているという説があるとしている(同98頁。後藤とは山県-桂系の後藤新平だと考えられる。後藤は当時逓信大臣であった)。

Translate »