1-13日本の第2党はなぜ弱いのか1.政権交代論

進歩党の敗北

立憲改進党は、指導者であった大隈重信が薩長閥政府の外務大臣となり、外国人が被告となる裁判への外国人判事の任用を認めることで、不平等条約の改正を実現させようとした。このことから、立憲改進党は第1回総選挙の当時、人気を落としていた。ただし、元々の運動の広がりについても、自由党系に差をつけられていた(自由党は第1回総選挙当時、大同倶楽部、自由党、愛国公党などに分かれていたが、選挙後に立憲自由党に、ほぼまとまった)。

この、劣位で衆議院におけるスタートを切った立憲改進党は、自由党系と共に薩長閥政府と対決したが、自由党系(自由党に改称)は、薩長閥の最大の実力者であった伊藤博文らと接近していった。要は、薩長閥政権に対する、難しい勝利よりも、ゆっくりだが確実な権力への接近と、衆議院の総選挙ではライバルとなる第2党、立憲改進党に対する勝利を優先させたのである。

これに対抗して立憲改進党は、対外硬派(外国に対する強硬派)の戦列に加わった。同党と対外硬派との姿勢には差異があったのだが、薩長閥と自由党に対抗することを優先させたのであった。第1、2党が共に現実的な判断をしたのだが、立憲改進党は出遅れたのであった。対外硬派には、伊藤には冷たくされていた薩長閥政府支持派(国権派を含んでいた国民協会)も加わっていた。このうち薩長閥政府支持派を除く勢力が合流し、進歩党を結成したのである。ここには日本の第2党の弱さが表れている。

1つには、寄せ集めの勢力は弱いということがある。日本の優位政党は、幅広い立場の人々の支持を得るため、中央に寄る傾向がある。この当時も、外交姿勢については自由党の右にあった従来の対外強硬派と、本来左にあった立憲改進党が、合流したのである。当然ながら、党の内部に火種が持ち込まれ、進歩党の流れを汲む憲政本党は、自由党の流れを汲む立憲政友会と反薩長閥連合を組もうという主流派と、外交姿勢が強硬的でない立憲政友会、何度も裏切られている立憲政友会との共闘を嫌う対外強硬派という非主流派の内部対立に揺れることとなった。なお、裏切りとは、自由党系と進歩党系(改進党系)による憲政党からの、旧自由党系の離脱(=憲政党内閣であった第1次大隈内閣の崩壊)、そして第1次桂内閣期の、立憲政友会(自由党系)と憲政本党(改進党系)の連携からの立憲政友会の離脱である。遡れば、議会開設当初の、野党連携からの自由党の離脱も、自由党の裏切りとし得る。

憲政本党の非主流派が薩長閥寄りになったこと、薩長閥(桂太郎)から政権を譲り受けた立憲政友会が、憲政本党と連立を組まなかったこと(さらなる裏切り)で、憲政本党内の対立は、より深刻なものとなった。自由党系との野党同士の連携を志向する(連携を主導していたため、裏切られても失敗を認め難い)、反薩長閥の傾向が強い非改革派(本領派)と、自由党系に対抗するため、自由党系のように薩長閥とも組もうとする改革派による、対立であった。これが深刻になったのは1910年前後であったが、1900年にすでに、伊藤と自由党系の合流(立憲政友会の結成)に参加して有利な立場を得ようとする議員達が離党していた。また1901年にすでに、現実的になって内閣の増税案に賛成した憲政本党を、これに反対する野党的な議員達が離党するということがあった(離党者には、立憲改進党以外の勢力の出身者が多かった)。これらの分裂によって、憲政本党は第1党から第2党になり、立憲政友会に遠く及ばない議席数になった。

そして憲政本党の後継の立憲国民党は結局、改革派と非改革派へと、真っ二つに割れたのであった。非改革派(立憲国民党残部)は小勢力へと転落していき、立憲政友会に合流した。改革派は、新たな第2党、立憲同志会(桂新党)の一部になり、第2次大隈内閣の成立によって与党の地位を得て、総選挙で第1党の地位も得たものの、その後野党に戻り、立憲政友会の優位政党への復帰を許した。

これらの分裂には確かに、合流前の勢力(立憲改進党、立憲革新党、他の対外硬派)の対立という面を持つものが多かった。しかしより重要なのは、劣位を脱する見込みがない中、あるいは劣位を脱しても、短期間でまた劣位に戻りそうな状況となる中、権力に近づいて展望を開くか、権力との対立に徹して展望を開くかという選択を、非優位政党が迫られることである。憲政本党系→立憲国民党の非改革派と改革派の対立も、前者が犬養毅、後者が大石正巳をリーダーとするものであった。両者とも、立憲改進党の出身である。

以前にも述べたが、これは2017年の民進党に似ている。寄せ集めだから党内がバラバラだと批判をされ続けた民主党→民進党であったが、共産党との共闘を継続しようとする左派と、これに反対の右派が激突した代表選の候補者は、2人とも、日本新党→民主の風→新党さきがけ→民主党→民進党という経歴であった(前原誠司と枝野幸男)。不振に陥った新進党においても、内部対立の中心は、自民党出身者同士、その中でも旧新生党系同士の、主導権争いであった。これらのことからも分かる通り、非優位政党は、劣位を脱する明確な方法を求め、分裂するのである。旧党派間の争いは、方針を巡る対立の土台であったり、推進剤であったりするのだ。

このような非優位の第2党であるが、戦前の制度のおかげ(総選挙ではなく、事実上元老の推薦で総理大臣が決まっていた)もあり、政権を得たことがある。しかしやっと政権を得ても、その運営に失敗するという傾向がある。

衆議院では圧倒的な第1党であった憲政党(自由党と進歩党の2大政党が合流したもの)も、薩長閥(伊藤博文)から政権を譲り受けた後、旧自由党系と旧進歩党系の対立が深刻化して瓦解した。立憲同志会を中心とした第2次大隈内閣では、同党の党首であった加藤高明外務大臣の、中華民国に対するいわゆる対華二十一箇条の要求が、元老(薩長閥の中心人物達)、そして他国の反発を招いた。元老が事実上総理大臣を決めていた当時、このことが、立憲同志会→憲政会の政権獲得を阻む要因になった。

このような失敗の要因には、与党としての経験が浅いこと、政権交代を実現させた高揚感で突っ走ってしまったことが挙げられる。第1次大隈内閣の中心であった大隈、板垣、第2次大隈内閣の中心であった大隈、加藤には、行政の経験は十分にあった。しかし様々な調整をしながら政権を維持していくという経験には乏しく、その気もあまりなかった。(やっと政権を取ったのだから)思い通りにやりたいという気持ちが強くなるのは、それまで野党経験が長かった民主党の内閣でも見られたことである。これも当然、その賛否をめぐる、あるいは口述とする、党内対立を招く。