日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党の2択(①)~議院内閣制ではなかった時代の、第2党における遠心力、1強2弱~

野党の2択(①)~議院内閣制ではなかった時代の、第2党における遠心力、1強2弱~

憲政本党は衆議院全体の定数の、5分の1にも届かなかった。立憲政友会と並び得る存在であるのか、疑問の持たれるような議席数にまで落ちたと言える。現在の日本では、第2党の議席が定数の10分の1あまりになることすらあるから、それよりは深刻でないようにも感じられるが、当時は優位政党の他に薩長閥というさらなる優位勢力が存在したから、憲政本党にはより不利であるという面があった。同時に、薩長閥と組むことができれば、第1党になる事が今より容易であったとも考えられる(ただしそのためには、薩長閥が立憲政友会を敵に回し得る状況にならなければならない。薩長閥にそれだけのメリット、必要性があるか、そうしたい感情になるような事がなければいけない)。だからこそ、憲政本党には強い遠心力が働いたのだと言える。憲政本党は議席を減らしたが、個々の党派で見れば、第3党以下をむしろ一度引き離した。鼎立(自由党系、改進党系、吏党系が対等に近づく)の傾向は、すでに総選挙の前から、大同倶楽部の分裂、立憲政友会の同派への切崩しの一定の成功によって弱まっていた。それが総選挙でさらに弱まったのだ。優位政党に反対する有権者にも、様々な立場があったという点では、戦後の五十五年体制や、民主党下野後の多党化した状況と共通する。憲政本党非改革派が主導して敗北した(反薩長閥路線での立憲政友会との民党連合形成に失敗し、立憲政友会だけが薩長閥の桂から政権を得た)ことから、憲政本党では改革派が再び優位となった。ただし改革派は、当時の状況(経済状況、それを受けた桂太郎の消極財政路線)から、積極財政路線をすでに軌道修正していた。

Translate »