日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振・実業派の動き・新民党(①)~吏党系の多少の広がり~

(準)与党の不振・実業派の動き・新民党(①)~吏党系の多少の広がり~

大同倶楽部の議席の大幅な減少については、同派を吏党系として見る場合、選挙で減らしたというよりも、選挙前に再編で無理に増やしていた分が消えたと見るべきだ。吏党系の帝国党は第9回総選挙後、会派自由党(立憲政友会離党者)や、無所属で当選した立憲政友会の離党者、その他の無所属での当選者を加えて議席を実力以上に大きくしていた(帝国党、会派自由党、甲辰倶楽部、有志会の一部、無所属議員の一部が合流したのが大同倶楽部)。これが選挙を経て、吏党系が大同倶楽部結成前の水準に戻ったと言えるのだ(それでも議席は帝国党よりもやや多く、より正確には第6回総選挙前までの吏党系の水準に戻ったという事になる―議席数の推移については「政党、会派の系譜」参照―)。ただし29名の当選者を見ると、元帝国党衆議院議員が8名、元甲辰倶楽部衆議院議員が4名となっており(元会派自由党は0、後に2→1)、帝国党そのものに戻ったとまでは言えない(甲辰倶楽部が主張の明確な会派ではなく、実際には吏党系とし得るような議員も多かったから、そう言っても誤りではないし、帝国党にも結成時、中立的な会派の議員が少し加わってはいる)。第9回総選挙後の再編による広がりを、多少は維持できたとも言える(中央倶楽部結成時の議員53名を見ると、帝国党出身者が8名、甲辰俱楽部出身者が5名、会派自由党出身が2名、有志会出身が2名、立憲政友会出身者が、甲辰倶楽部出身の3名を含む6名である。これを見てもそう言える面は確かにある)。

なお、無所属から結成後の大同倶楽部に移ったのは松家徳二、松元大吉、脇栄太郎、柴四朗、佐治幸平、竹内正志であった。このうち松家と脇は立憲政友会出身、松本大吉は元会派自由党、柴と佐治は憲政本党の離党者、竹内は元同攻会で、憲政本党を離党して三四倶楽部を結成した議員達の一人であった。つまりいずれも、政党政治家の性格を持っていた議員であった。

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