日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振・実業派の動き・新民党(①④)~無所属議員の変化~

(準)与党の不振・実業派の動き・新民党(①④)~無所属議員の変化~

政党組織でない大同倶楽部では、本部が各地方の候補者を応援することができないため、地方の便宜に依って互いに応援する事となっていた(1908年3月29日付読売新聞)。大同俱楽部よりさらに政党色が薄かった猶興会はしかし、同派の名称を以て応援することはなくても、政界革新同志会が応援をしたため、事情が異なっていた(同4月3日付東京朝日新聞)。一方で、双方に共通する特徴もあった。1908年4月10日付の東京朝日新聞によれば、大同倶楽部の幹部は、所属議員は総選挙で減るかも知れないが、同一主義の候補が少なくないとして、同主義者の議員は増えるという見方を示している(この幹部は、大同倶楽部が時に立憲政友会、時に憲政本党と協力する形になったことについて、国会本意で行動した事の結果だとし、除外例はあるものの、総選挙を単独で戦うとしている)。この幹部が無所属の同主義者と見る候補者達は、戊申倶楽部を結成する議員達の中の官僚派(本当に官僚出身の者もいたが、山県-桂系に議員たちがそう呼ばれていた)であると考えられる。戊申倶楽部、又新会結成時、無所属議員に留まった議員は5名だが。後の動きを見ても、【その5人=官僚派そのもの】ということはない(5名のうち3名は立憲政友会入り、1名は中央倶楽部の結成に参加、1名は当選無効に)。同志研究会系(猶興会→又新会)と吏党系はもちろん遠いし、「同主義者」は戊申倶楽部に参加したと考えるのが自然なのだ。その戊申俱楽部は、大同倶楽部と合流して中央倶楽部を結成することになる。猶興会は、同派所属でない政界革新同志会の、あるいは政界革新同志会と同様の立場を採る当選者と、又新会を結成した。つまり、政党でない大同倶楽部と猶興会は、第10回総選挙後、立憲政友会よりも多くの無所属議員を吸収することになるのである。

無所属の当選者が、自由党系と改進党系という明確な政党(立憲政友会は結成時こそ政党を自称する事を避けたが、自由党系の政党と認識し得るものであった)に属したがらず、そうでない勢力による会派に参加したという点では、それ以前の、無所属の当選者の一部~多くが中立的な会派を結成していた時代と、あまり変わっていない。日本の政治がまだそこまで進んでいなかったのだとも言えるが、実は確実に変化、進歩していた。それは、立場上は中立的な面があったり、政党に属したがらなかったりする議員達も、政党とまでは言えなくても、それぞれに核となるような組織が明確にあり(図⑩-C参照)、理念や政策に関して色もある、そんな会派にほとんどが加わったという、変化である(ただし、戊申倶楽部の約4分の1は中央倶楽部の結成に参加せず、他の党派にも加盟せず、無所属となる。そこには商工党を結成しようとしていた―本章実業派の動き(④)~政党化の是非①実業派~参照―中野武営らも含まれるー本章野党再編実業派の動き新民党(⑩)~戊申倶楽部と又新会の議員の行き先~参照ー)。

第10回総選挙のおよそ10日後、1908年5月25日付の東京朝日新聞には次のことが、無所属議員について記されている。時期と内容から、基本的には第9回総選挙後(第10回総選挙前まで)の動きについて述べたものだといえる。従来の無所属には党議に縛られることを好まない、記事が潔癖分子と呼ぶ少数の議員達と、形成を見て利のある所へ行こうとする者が雑居していた。藩閥が政権を握り、超然主義(いずれの政党にも偏らない、あるいは政党無視)を採っていたから、彼らは無所属でいた。しかし立憲政友会が政権の中心となったため、同党に入る者が多く現れたという。これが薩長閥にも政党組織の必要を感じさせ、大同倶楽部を結成させた。このため無所属が立憲政友会と大同倶楽部に入って、無所属議員が減った。潔癖分子は猶興会に集まった。こうして徳島組以外は無所属がほとんどいなくなった。無所属議員を出す選挙区は不健全で、金銭で容易に票を買えるところであり、候補の党籍は問われず、有権者は代議士と共に動くものであるため、立憲政友会の景気が良いのを見て、多くが同党に入った。という事だが、無所属の中立議員を立憲政友会に取られないように、薩長閥が吏党系の政党化、さらなる拡大を許した、目指したという面はあるのだろう。だから国民協会がついに、立憲政友会も避けた「党」を用いる帝国党になり、同党等を中心に大同倶楽部という政党的なものがつくられた。この再編で政党化は後退したが、一度、少なくとも議席の上では大拡大に成功したのである。記事はさらに、第10回総選挙で当選した無所属の候補者達を、次の3種に分類している(ここだけそのまま引用する)。

一、其地方にて個人的勢力を有するもの

二、公認候補者に反對する不服者

三、非増税運動の結果

一は藤沢元造、木村艮、片岡直温、渡辺千冬、中村弥六、高野孟矩らで、議会では潔癖分子と歩調を共にするはずだとしている。三は市部選出議員の多くで、前議会では3名となっていた市部選出の無所属議員が増えたのだとする。二は今でもみられる、政党の公認を求めても得られなかった者が、無所属で出馬するケースだ。一の藤沢は後に又新会に、木村、片岡(元国民協会、山下倶楽部)、渡辺、中村(元大成会、巴倶楽部、同盟倶楽部、立憲革新党、進歩党~憲政本党、中立倶楽部)、高野(元会派自由党)は戊申倶楽部に参加する(木村は中央倶楽部、立憲同志会へと、片岡は立憲国民党、立憲同志会へと進むが、渡辺は中央倶楽部結成に参加せず立憲政友会に移り、中村、高野は戊申倶楽部の次に属した会派はない)。つまり、筆者の新民党にあたる「潔癖分子」とは結び付かなかったのである。第10回総選挙後の動きは、この記事の見方を、一度は裏切るような形になったわけである。有利な党派に身を寄せる事も、潔癖分子として、潔癖分子の猶興会に参加する事もしなかった議員が多くあり、彼らの多くが別に、戊申倶楽部を結成した。その理由として2点挙げられる。依然として中立である事、中立として様子を見る事が無難であったという点、そして逆に、実業派を中心とした、既成の党派(新民党を含む)とは別の会派(そしてその政党化)が目指されたという点である。後者によって、戊申倶楽部にもそれまでの中立派(中立実業派)以上の、党派性を見いだせるのだ。また、戊申俱楽部に参加した山県-桂系(に近い)の議員達には、このような異なる傾向の議員を広くまとめ、いずれ大同倶楽部(等)と合流し、吏党系を強くする意図も、あったと考えられる。

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