日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
実業派の動き・選挙制度の影響・野党再編(①)~重要性を増す市部~

実業派の動き・選挙制度の影響・野党再編(①)~重要性を増す市部~

第10回総選挙前(第24回帝国議会の会期終了日1908年3月26日)、総選挙(同年5月15日)における獲得議席、第25回帝国議会における衆議院開院当日(同年12月25日―猶興会は又新会になっている―)の議席数を順に記した。()内にはそれぞれ市部(北海道の3区-札幌、函館、根室-は含めない)選出議員の数を記した。なお、衆議院の過半数はいずれも191議席である。

立憲政友会: 180(30) → 187(25) → 192(26)

憲政本党 :  87(11) →  70( 4) →  65( 3)

大同倶楽部:  59(17) →  29( 7) →  30( 6)

猶興会→又新会:36(12) →  29( 9) →  45(14)

戊申倶楽部:   -( -) →   -( -) →  42(22)

無所属  :  16( 3) →  64(28) →   5( 2)

欠員   :   1( 0) →   0( 0) →   0( 0)

合計   : 379(73) → 379(73) → 379(73)

市部選出議員の数を見ると、憲政本党には、第9回総選挙において東京市で他の勢力よりも多い5議席を確保するなど、少ないながらも一定の市部選出議員がいた(東京市選出の鳩山和夫が離党したが、同市選出の田口卯吉の死去に伴う補欠選挙において1名を当選させて、5議席を維持した)。それが第10回総選挙で、過去最低となった。憲政本党にやや近い無所属の当選者もいたという可能性はあるが、同党が市部で支持を得ていたとはとても言えない(議員・後継の不出馬、離党、落選と、その原因が1つでないとしても)。立憲政友会は、市部選出の議員の数が最も多い政党であることに変わりはなかったが、第10回総選挙でその数が減り、同党の全議席数に対する割合は下がった(衆議院全体では定数に占める市部の定数の割合は約19.3%だが、立憲政友会の獲得議席に占める市部の割合が約13.7%に過ぎないこと、市部の多くが大政党に有利な1人区―小選挙区―であった事を考えると、低いと言っても良いと思う)。猶興会でも、市部選出議員の数、割合が小さくなった(約33.3から31.0%への微減だが)。又新会の結成までを見ても、また大都市周辺の郡部等を含めても、猶興会が市部で躍進したということはない。大同倶楽部でも市部選出議員の数、割合は減った(数は大幅減、割合は微減)。高梨哲四郎の離脱で議員ゼロとなっていた東京市で、新たに2議席を得たものの、立憲政友会を切り崩したこともあって定数6のちょうど半数を得ていた大阪市で壊滅、同様に2議席を独占していた名古屋市でも1議席となり(1名が不出馬)、定数3のうちの2議席を得ていた京都市でも壊滅した。大阪市では立憲政友会が復調した(総選挙の後だが、1910年11月13日の原敬の日記には、大阪で弁護士等の新人を入党させて発展を計る努力をする必要があると記されている―『原敬日記』第4巻118頁―)。市部選出議員の割合が高かったのは、実業家、その推薦を得た議員等が結成した、戊申倶楽部であった。同派は東京市と京都市でそれぞれ3、大阪市と名古屋市でそれぞれ1議席であった。彼らは無所属の候補として当選しており、市部では無所属の当選者の割合が非常に高い。既成政党が郡部に根を下ろし、郡部の有権者を代表している面が大きいことが分かる。

立憲政友会は与党であること、それにより可能であった、利益誘導型の積極財政への評価、期待から議席を増やしたと見られ、郡部でより強いという事も(市部に利益誘導政治への期待がないわけではないとしても)それと矛盾しない。同党は総選挙後に入党者を得て、衆議院の過半数をわずかながら上回った。大同倶楽部も憲政本党も、内紛にかなりエネルギーを使っており、最も左の極(同志研究会系の猶興会→又新会)も一体的であったわけではなく、さらに当時最も左の極と主張が近かった実業家の当選者達が、これらの勢力と別に立ち上がったのだから、それらがしっかりと大同団結しない限りは、衆議院には立憲政友会にまともな敵がいないという状態であった。だが、同党が市部で議席を減らし続け、その分を郡部で補えなえなければ(郡部ではすでにかなり優位にあり、かつ郡部は市部の多くと違って、票割が求められる大選挙区制であった事から、さらに議席を増やして市部での減少をカバーするのは困難であった)、たとえ第1党の地位は維持できても、過半数の回復は困難となる。それでも少数の連携相手を見つけるだけで過半数に届くと言う状態は、比較的維持しやすかっただろうが、当時は薩長閥(の元老)の力もまだ強かった。だから立憲政友会は、政界全体の優位勢力ではまだなく、薩長閥(特に山県-桂系)と溝が広がって、野党で選挙を迎えざるを得なくなるという可能性もあった。そうなると郡部でも議席を減らす危険がある。あるいは、そのような状況をチャンスと捉え、非政友会の党派が多少無理をしてでもほぼ全て脱落者なくまとまって、立憲政友会をより不利な立場、選挙で議席を取りにくい立場に追い込む可能性があった。このような事は、立憲政友会が市部で分裂前の、あるいは少なくともこの当時の勢力を維持する限り起こり難い(薩長閥も郡部、市部ともに多くの議席を安定して得続ける立憲政友会を、そうそう敵には回せない)。だから市部当選者の行方、市部に強い勢力の行方は、非常に重要になっていたのだと言える。市部の多くは1位の候補しか当選しない小選挙区であったから、時代の変化が本格化した時には、それが明確に選挙結果に反映されるのが自然であった。

市部では無所属の当選者が多いが、その多くが税負担の軽減、公正を求めるの立場であったから、そのような考えが、主に市部で支持を得たのだと捉えるべきだろう。そして彼らの多くは戊申俱楽部の結成に参加し、一部は、市部選出の当選者が比較的多かった猶興会と合流する(又新会の結成)。郡部において2大政党が、市部において、それらより新しく、小さい政党が支持を得るという傾向は、多党化した後の五十五年体制下にも見られた(全体では、第1党の優位性が揺るぎ難いものである点も共通しているように見えるが、上述した通り、当時の立憲政友会の優位性はまだ盤石なものではなかった)。

憲政本党は、猶興会と同じく低負担を主張したが、それでこの2つの党派を同一視できるというものではない。それは地租の引き下げ、そして後に引き上げ阻止を志向してきた改進党系(憲政本党)の歩みを見れば分かる。第1次大隈内閣が市街宅地租を中心に地租を引き上げようとした事(第6章第3極実業派の動き(⑦)~日吉倶楽部と地租~参照。自由党系や改進党系が合流した憲政党内閣期だが、総理大臣は改進党系の大隈重信。背景には、当時の財政規模の拡大と産業構造ゆえに地租増徴自体は避けられないという状況があった)、政友会内閣(第4次伊藤内閣)期の1901年、酒造税、麦酒税、砂糖消費税、海関税の増税法案賛成に転じた憲政本党を離党した議員達が、三四倶楽部を結成した件も好例である(筆者は猶興会もこの三四倶楽部も、共に新民党に分類している)。

最後に、1900年に実現した選挙制度の改正は、市部選出の議員が増えたことで、伊藤博文の狙い通り、地主層の支持を得る多数派の議員達とは異なる議員達を増やす結果になった(中立派は以前から少なからずいたが、憲政党、立憲政友会の結成で一度激減した事を、地方における利益誘導志向という、むしろ転換後の自由党の姿勢の延長線上にあったと言えるような立憲政友会が、伊藤の思うような政党にならなかった事と合わせて、念頭に置いておかなければいけない)。問題は、財政に余裕ができた時に、負担の軽減も、産業振興的な、財界への利益誘導もなく、それが明確になった場合であったと言える。その時、中立的な実業派の議員達がどうするのか、当時はそれが明らかとなり得る状況ではなかった。

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