日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係(①⑩)~改進党系の不振と衆議院1強2弱化の可能性~

1列の関係(①⑩)~改進党系の不振と衆議院1強2弱化の可能性~

山県-桂系にあまり重要視はされていなかった(重要視されるほどに強くもなかった)ものの、山県-桂系に連なる吏党系も、無所属議員を集める力を持っていた(中央倶楽部に参加する戊申倶楽部の議員を皆当初から吏党系であったと見なす場合、話は変わって来るが、その場合は、中央倶楽部結成時の、大同倶楽部を大きく上回る議席数が、吏党系の実力だという事にはなる)。志向が明確に見られた又新会(同志研究会系)の一部との合流を、無所属議員の吸収とは捉え難い。そうであれば、議会最左派の新民党(同志研究会系)を別とすれば政界は、山県-桂系と立憲政友会との、2大勢力が中心になっていたと言え、憲政本党は、いくら大同倶楽部を議席数で引き離しても、第3極になりつつあったのだということになる(ここに憲政本党後継の立憲国民党の約半数や、大同倶楽部後継の中央倶楽部による、立憲同志会結成の必然性を見出せるというのは少し乱暴な話だとしても)。この場合新民党も、ある程度無所属議員を吸収したとはいえ、大同倶楽部よりはかなり少ないから(中央倶楽部に参加した戊申倶楽部の議員達を、当選した時を基準に無所属と見れば)、第3極とし得るだろう。薩長閥の要人達のような発言力も、憲政本党という政党、そして1907年1月までその指導者であった大隈重信にはなかった。

立憲政友会は、政界の中央(図⑩-A第9章1列の関係(⑦⑧⑪⑫⑬)~繰り返される歴史~参照)にあってキャスティングボートを握る存在から、山県-桂系と対等に、政界に並び立つ存在になりつつあった(図⑩-H参照)。そうなっていく過程にあったのが、桂園時代であった(その後の一時的な後退については、次章以降で見ていく。また、分かりやすく「桂園時代」とだけしたが、その捉え方には幅が合っても良いと考える(図⑩-B参照)。伊藤が立憲政友会を率いていた時代とは、薩長閥における同党の印象が異なると考え、今は、日露戦争末期の、原と桂の駆け引きが行われ始めた頃を起点としておきたい)。憲政本党はと言えば、政界全体のキャスティングボートを握るには、議席数等の勢力、統一性に、あまりに欠けていた。自由党系が自らの地位を上げ、1列の関係における薩長閥と自由党系の関係が変化を見せても、改進党系はその最後尾において、同様に存在し続けるしかなかったのである。一方で、1列の関係に敢えて組み込んでみた場合、改進党系のさらに後ろに位置する新民党は、薩長閥と反対の方を向いていたと言える(図⑩-A参照)。薩長閥から政権を譲ってもらおう、政権に入れてもらおう、という気はなかったからだ。彼らも政党内閣、議院内閣制を志向していたと考えられるのだが、それは自分達で政権を取ろうというのとは違った(同志研究会系が大政党との再編なしにそこまで大きくなるとは考えられなかったはずだ)。これは、政権を狙う宿命を背負う第2党、野党第1党ではない野党としては、強みにもなる。この事からも、かつて薩長閥のほうを向いており、その路線でも、また自由党系との民党連合でも失敗し、キョロキョロし始めたような状態であった憲政本党は、かなり劣勢にあったと捉えるべきだ。それはつまり選挙でも議会でも、軽視される危険、埋没する危険があったという事である。

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