日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1党優位の傾向・離党者の性質(①)~政党を1つ吸収したのと同規模の拡大~

1党優位の傾向・離党者の性質(①)~政党を1つ吸収したのと同規模の拡大~

第10回総選挙について見る前に、第9回総選挙後、立憲政友会に加わった議員達を見てみよう。何せ第9回総選挙で128議席を得た同党が、第24回帝国議会の会期終了日には180議席にまで増えていた。これは中規模の政党を1つ飲み込んだのと同じレベルである。増えた議席には、他の勢力の議員の辞職等に伴う、補欠選挙を制した分も含まれているが、ここでは、他の会派や無所属から移った議員だけを見ていく。選挙区(市部の場合には  を付した)、立憲政友会入りする前までの所属会派も記した。自由党系本流の自由党、立憲政友会に属していたことがある議員には  を付し(会派のみの所属である場合もあるかも知れないが、それも含める)、第10回総選挙の当選者は太字にした。その数42名である。

①森肇     松山市  - ※第10回総選挙に無所属として繰上げ当選。後に中央倶楽部

②中村雄蔵   福岡郡  -

宮古啓三郎  茨城郡  壬寅会、交友倶楽部

④林小参    愛知郡  壬寅会、中正倶楽部、甲辰倶楽部

大井ト新   三重郡  甲辰倶楽部

佐藤虎次郎  群馬郡  中正倶楽部、甲辰倶楽部

⑦芦田鹿之助  京都郡  甲辰倶楽部

沢田佐助   大阪市  立憲政友会、甲辰倶楽部、有志会

森茂生    三重郡  中正倶楽部、甲辰倶楽部

日向輝武   群馬郡  立憲政友会、同志研究会、無名倶楽部、同攻会 ※後に大正倶楽部

千葉禎太郎  千葉郡  立憲自由党、自由倶楽部、自由党、大同倶楽部、立憲政友会

本出保太郎  大阪郡  甲辰倶楽部、大同倶楽部 ※後に維新会へ

⑬中沢楠弥太  高知郡  会派自由党

⑭楠目玄    高知郡  会派自由党

山本幸彦   高知市  憲政党、立憲政友会、会派自由党

佐竹作太郎  甲府市  壬寅会、中正倶楽部、甲辰倶楽部

横山寅一郎  長崎郡  -

⑱永見寛二   長崎市  有志会

河上英    島根郡  会派自由党、大同倶楽部

⑳宮部襄    高崎市  会派自由党、有志会、大同倶楽部

関根柳介   東京郡  立憲政友会、交友倶楽部、大同倶楽部

小田貫一   広島郡  自由党、憲政党、憲政党、立憲政友会、会派自由党

㉓辻実     三重郡  有志会 ※後に立憲同志会へ

矢島中    宇都宮市 立憲政友会、自由党、有志会、大同倶楽部

㉕脇栄太郎   広島郡  巴倶楽部、山下倶楽部、大同倶楽部

㉖高梨哲四郎  東京市  山下倶楽部、憲政党、憲政本党、議員同志倶楽部、中立倶楽部、中正倶楽部、甲辰倶楽部、大同倶楽部

小山田信蔵  水戸市  有志会、大同倶楽部 ※後に政友本党へ

栗原宣太郎  神奈川郡 立憲政友会、交友倶楽部、会派自由党、甲辰倶楽部、大同倶楽部

㉙山口小一   佐賀郡  大同倶楽部

関信之助   茨城郡  自由党、憲政党、憲政党、立憲政友会、政友倶楽部、会派自由党、大同倶楽部

㉛尾見浜五郎  茨城郡  大同倶楽部

㉜横山一平   千葉郡  大同倶楽部

牧野逸馬   福井市  立憲政友会、会派自由党、大同倶楽部

丹尾頼馬   福井郡  立憲政友会、会派自由党、大同倶楽部

㉟是永歳太郎  大分郡  甲辰倶楽部→大同倶楽部

武市庫太   愛媛郡  自由党→憲政党→帝国党→大同倶楽部

㊲藻寄鉄五郎  石川郡  政友倶楽部、会派自由党、大同倶楽部

武藤金吉   群馬郡  大同倶楽部

板倉中    千葉郡  立憲自由党、自由倶楽部、自由党、立憲政友会、政友倶楽部、同攻会、政交倶楽部、猶興会

大久保弁太郎 徳島郡  会派自由党、大同倶楽部

鳩山和夫   東京市  立憲改進党、進歩党、憲政党、憲政本党

中西新作   熊本郡  立憲政友会、同志研究会、無名倶楽部、同攻会、憲政本党、猶興会

42名中の、14名が復党である(この14名の他にも、衆議院議員になる前に自由党系に属していた者がいるかも知れない)。立憲政友会は離党者、特に第8回選挙後の大量の離党者(延べ66名。復党して再度離党した1名を1名分と数え、解散以前に復党した2名を除いても63名)のうち、一定部分を再度吸収したのである。当時まだ選挙ごとの議員の入れ替わりが激しかった事も考えると、これを実際の人数よりも大きくとらえても良い。この動きは第10回総選挙後も続き、60名以上の離党者の中で議員を続けた者は、約半数が復党したという結果になる(※)。冷戦が終わり、離党者が続出した自民党の場合もそうであったが、優位政党の離党者の多くは、結局復党したくなるのだと言える(それだけ利益があるという事は想像に難くない。それは支持者にとっても同様だろう。あるいは単純に、優位政党に所属していたいという、プライドの問題である場合もあるだろう)。そして他に、中立会派の議員達を、吏党系に合流した者も、そうでない者も、立憲政友会が多く吸収した事が分かる。立憲政友会は順境にある事を利用して、去っていた議員達と中立会派に属した議員を、比較的多く吸収したのだと言える。

※ 立憲政友会の離党者延べ66名のうち、第9回総選挙の前までに立憲政友会に復党せず、第9回総選挙以後当選していない議員は延べ26名である。残る40名の内訳は次の通りだ。衆議院議員でなくなり、かつ後に衆議院議員とならない者の移動は含めていない。

・第9回総選挙に立憲政友会の候補として当選:2名

・第9回総選挙後から第10回総選挙の前までに復党:13名

・第10回総選挙後に復党:6名(うち2名が総選挙後初の議会招集の前に復党。4名が又新会に属していたが、再編を契機に復党)

・第10回総選挙の補欠選挙に立憲政友会から当選:1名

・第11回総選挙以後に復党:2名

立憲同志会→憲政会→立憲民政党の議員になったのは6名である。

 

復党した議員達の多くも中立会派に属していたから、中立的な勢力が立憲政友会に大きく切り崩されたという面がある。中立派(中立実業派)は薩長閥寄りである事が多かったが、少なくとも一定の割合は、時の権力になびくものであったと想像される(※)。また、市部選出の議員が10名と多く(これだけで全市部選出議員の7分の1に近い)、その中では立憲政友会離党者は少数派であるため、同党は、市部の基盤を以前よりも強化することに成功したのだと言える。第8回総選挙後の離党者のうち、市部選出の者は以下の通りだ(復党の有無はあくまでも衆議院議員として)。

渡辺鼎(若松市)・・・復党せず

矢島中(宇都宮市)・・・後に復党

串本康三(広島市)・・・後に復党

高木龍蔵(尾道市)・・・復党せず

牧野逸馬(福井市)・・・後に復党

沢田佐助(大阪市)・・・後に復党

横田虎彦(大阪市)・・・復党せず

わずか7名だし、若松市選挙区では第11回総選挙において立憲政友会の候補者が当選している。つまり選挙で取り戻している(離党者は会派自由党へ。第10回総選挙では大同倶楽部の候補が当選)。

※もっとも、政友会内閣期も、同党が圧倒的に優位にあったわけではなく、衆議院以外は薩長閥が押さえる中で、拒否権を利用しつつ、薩長閥に徹底的に敵対するわけではないという立場を採る事で、地位を向上させていく過程に、まだあった。それでも、桂に政権を禅譲されたとは言っても、そうさせたのも立憲政友会の力であり、そのような力によって、政権をも担当し得る立憲政友会が、議員達にとって魅力的な存在になったということはあるのだろう。なお、この事からは、【万年与党の自民党にすり寄って(自民党が非常に弱っていれば対等に近くなり得るが、そのような事はまず起こり得ない)、自民党政権に加わり、政権担当能力、官界、財界からの信頼を得ようとする野党】という構図が思い浮かぶ。しかし、実際にはこのような事がうまく運んだことはない。

 

なお、立憲政友会は自由党系と薩長閥の伊藤系が合流したものだが、伊藤はすでに離れていたと言え、伊藤系との合流によるブランド力は限定的なものであり、衆議院における拒否権も、第8回総選挙後に分裂してからは過半数を上回っていたわけではなかったから(特に第10回総選挙の前までは)、同党と民党連合を形成しようとする憲政本党(の非改革派)を引き寄せたり、桂太郎に接近したりと、「政界の中央」の位置(図⑩-A第6章1列の関係(⑦⑧⑪⑫⑬)~繰り返される歴史~参照)にある事をうまく利用して立ち振る舞っていたに過ぎない。ただし公家出身で伊藤系の西園寺公望が総裁(党首)であった事は、同党が強さを見せつけて政権を譲ってもらうための、資格のようなものではあった。

1908年5月27日付の東京朝日新聞は、第10回総選挙で十分な結果を得られなかった各党が、無所属議員を加えようとしていた事を報じている。立憲政友会はそれを実現させて、衆議院の過半数を上回った。大同倶楽部にも数名の加盟があったが、離脱もあって結局増えていない。実際には、立憲政友会入りする無所属議員もそこまで多かったわけではない。第25議会開会までに差し引き5名だ(戊申倶楽部、又新会の結成に各1名ずつ参加するなど、離党もわずかながらあった。なおそこから第26議会開会までに、無所属数名を含む10名程度の入復党があった)。立憲政友会が総選挙後わずか2カ月ほどで、野党(準野党とも言えるが)に転落している事も関係しているかも知れない。大同倶楽部と猶興会は、無所属で当選した議員との再編に進んだが、それを、一時期戊申倶楽部のような会派を組んでいた者もふくめて【無所属議員の吸収】と見なせば、その規模は立憲政友会を大きく上回るものであった。なお、憲政本党はむしろ又新会を結成した猶興会に、議席を奪われたと言える(4名が又新会に参加)。

何も主義主張がなければ、野党になったとは言え、立憲政友会の議員になる事には一定の魅力があった、衆議院の優位政党であったし、吏党系に加入、合流しても、それだけで薩長閥、山県-桂系の一員になれるわけではなかったからだ(薩長閥―特に山県―が政党に否定的であり、衆議院議員を尊重していなかったため)。そのなかで大同倶楽部(吏党系)、猶興会(新民党)、特に後者が多くの無所属議員を吸収したという事からも、無所属議員の多くに当時、主義主張があった事がうかがわれる。

最後に、総選挙から3日後の、5月18日の日記において原は、第24議会で立憲政友会に182人の衆議院議員がいたものの、そのうち20名は第23議会以後に入党したもので、議席の維持が難しかったとしている(『原敬日記』第3巻199頁)。第23回帝国議会開会後、立憲政友会入りした衆議院議員は、上の一覧の⑲から㊷の24名である。この中で見ると、半数以上が立憲政友会出身ではない(少なくとも衆議院議員としては)。議員経験がほとんどなかった、つまり選挙区に地盤を築いておらず、自由党系、立憲政友会の地盤にも乗っていない議員が10名近くいたと考えられる。しかし、立憲政友会出身者の方が多く当選しやすいと考えられるような傾向は見られない。第10回総選挙に当選していない議員についても、出馬して落選したケース、後継者に後を託し、その後継者が当選したケース、当選しなかったケースがあり、それらのケースを特定するのは難しい(当時は立候補制ではなかったが、事実上立候補していれば一定の票は入ると思われるので、その有無で出馬、不出馬を判別する事はできる)。

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